◎百億の昼と千億の夜
悟りとは、あらゆる実感を経たとということである。
あらゆる実感を経たとは、権力者も金持ちも有名人もやったことがるということ。一人の人間がたかだか80年の人生の中で、権力者になり、大金持ちになり、有名人になり、その一方で奴隷の如き者になり、極貧ともなり、市井の無名人をも経験し、かつ男女両方を経験するというのは、ごくごく稀にあるかもしれないが、ほとんど実現困難な人生のパターンだと思う。
大金持ちにも子供時代があり、青年時代があり、壮年時代があり、老年時代がある。同様に、貧乏人にも権力者にも奴隷にも出生から逝去までの、年齢を追った人生の諸アスペクトがある。
このように考えて来ると、一回の人生で、あらゆる人生の実感を体験するというのは、事実上不可能と思う。
そこで、釈迦のように虫けらから猿からライオンから人からあらゆる前生を経ないと悟りに到達しないという見方が出て来る。
百億の昼と千億の夜というのは、仏典が出典だと思ったが、これを経ないと悟りに到達しないということはあるだろう。現代は、百億の昼と千億の夜を経た人間が多数出現しているというということであり、それは先進国での比率は高く、発展途上国での比率は低いのだと思う。文明の爛熟は、こうした人間をなぜか集中発生させる。
『今ここ』というのは、それとはまったく次元の異なる物言いである。
悟りとは、あらゆる実感を経たとということである。
あらゆる実感を経たとは、権力者も金持ちも有名人もやったことがるということ。一人の人間がたかだか80年の人生の中で、権力者になり、大金持ちになり、有名人になり、その一方で奴隷の如き者になり、極貧ともなり、市井の無名人をも経験し、かつ男女両方を経験するというのは、ごくごく稀にあるかもしれないが、ほとんど実現困難な人生のパターンだと思う。
大金持ちにも子供時代があり、青年時代があり、壮年時代があり、老年時代がある。同様に、貧乏人にも権力者にも奴隷にも出生から逝去までの、年齢を追った人生の諸アスペクトがある。
このように考えて来ると、一回の人生で、あらゆる人生の実感を体験するというのは、事実上不可能と思う。
そこで、釈迦のように虫けらから猿からライオンから人からあらゆる前生を経ないと悟りに到達しないという見方が出て来る。
百億の昼と千億の夜というのは、仏典が出典だと思ったが、これを経ないと悟りに到達しないということはあるだろう。現代は、百億の昼と千億の夜を経た人間が多数出現しているというということであり、それは先進国での比率は高く、発展途上国での比率は低いのだと思う。文明の爛熟は、こうした人間をなぜか集中発生させる。
『今ここ』というのは、それとはまったく次元の異なる物言いである。