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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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聖書の不思議

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◎イエスと教会と聖書の2千年

禅僧徳山は、金剛経の学究として知られ、いつも金剛経を背負って歩いていたが、餅売り婆さんに問答を仕掛けられ、返事に詰まって、ついには金剛経を捨てるに至った。最後は経典を捨てて大悟したのだ。

禅では、冥想指導してくれる師匠がメインであり、経典は従である。本来正念相続というか、悟りの伝承というのは、そういうものだと思う。書物になにかすごいことが書いてあるわけではない。何かすごい書物が自分をなんとかしてくれるわけではない。

ところが聖書というのは、その定石の逆を行っている。聖書そのものに権威を与えたのだ。でもキリスト教だって列聖といって、聖者と平信徒の区分はある。見神の意義も認めている。

なぜ聖書という書物に権威を与えるようなことをしたのだろうか。

4世紀末聖ヒエロニムスが、ヘブライ語やギリシア語の諸文書をラテン語の聖書にまとめあげた。聖ヒエロニムスが訳したのは、創世記、出エジプト記など旧約聖書のほとんどの部分と、新約聖書の四福音書。

新約の使徒言行録やローマの信徒への手紙などの手紙類、そして黙示録は、聖ヒエロニムスの手に成るものではない。それにしても膨大な翻訳を独力で為したもので、この事業は仏教の鳩摩羅什に匹敵する偉業である。

聖ヒエロニムスの翻訳は後1千年間用いられることになった。 

13世紀アッシジのフランチェスコなどの托鉢修道士が出た頃、彼らは行く先々で自分で説教しなければならなかったから小型の携帯用聖書が開発された。一人一冊持てるようになるというのは、現代の個人主義の時代にマッチした聖書が開発されたということになる。

聖書の中身は、予言とその成就の繰り返し、そして聖者の無私なる言行とときに悲劇的なあるいは印象的な最後の連続である。どんな不思議なパワーを有していても、そのパワーを自分にはなぜか行使せず、最後は自分を捨ててみせるのである。

人々に言うことを聞かせるには権威がいる。同時代に聖者という権威がいてもテレビや新聞がないので、その情報はそのままでは伝わらない。よって、イエス・キリスト亡き後に、その宗教的権威を示すシンボルとして聖書が用いられたということだろう。

イエスと教会と聖書。これで2千年もたせたということになるだろうか。だからイエスは成功したと言われるのだろう。

こうした歴史を踏まえて、各人が覚醒した宗教なき時代、地上天国・千年王国を迎えようとしているのだが、人類はその移行に堪える修錬はできているのだろうか。最後には聖書を捨てて大悟できるのだろうか。






悟りとは何か

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