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エメラルド・タブレット

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◎エドガー・ケーシーの見たアトランティス

錬金術の12の原理を書いたとされるエメラルド・タブレットは、ギザの大ピラミッドの中に埋葬された、ヘルメス・トリスメギストスのミイラが握っていたという伝説もあるそうだが、エドガー・ケーシーのリーディングでは、ピラミッドは墓ではないとしているので、その伝説は史実ではあるまい。

けれども、ケーシーがリーディングした「沈没したアトランティスの記録」とは、エメラルド・タブレットの内容である可能性がある。つまりエメラルド・タブレットとは、ギザの地下神殿かピラミッド本体に保管されているアトランティス文明の粋を記録したエメラルド板のことなのかもしれない。

巷に出回っているエメラルド・タブレットといえば、2種類あって、ひとつは霞ケ関書房のドーリル博士が編纂したもので、中身はとても霊がかっている内容のものなので、読む人によっては好き嫌いがあると思う。ルドルフ・シュタイナーばりの霊的世界がお好きな方に向く。

もう一つは、錬金術系の伝統の中にあるもので、ヘルメスによって12の錬金術の秘密が刻まれたというエメラルドの碑のことで、太古にエジブトピラミッド内で発見されたというが、現物は存在せず、その写本といわれているものの内容を元にしている。

中身はこれ。
《これは、うそいつわりなく真実、確実にしてこのうえなく真正である。一つのものの奇跡をなしとげるにあたっては、下にあるものは上にあるものに似ており、上にあるものは下にあるものに似ている。

そして万物は、一つのものの和解によって、一つのものから成ったように、万物は順応によって、この一つのものから生まれた。このものの父は太陽で母は月である。風はこのものを胎内にもち、その乳母は大地である。このものは全世界のいっさいの仕上げの父である。その力は、もし大地に向けられれば、完全無欠である。

なんじは、土を火から、精妙なものを粗雑なものから、円滑に、きわめて敏捷に分離するがよい。それは、大地から天へ上昇し、ふたたび大地へ下降して、すぐれたものと劣れるものの力をうけとる。

かくしてなんじは、全世界の栄光を手に入れ、一切の不明瞭は、なんじから消えさるであろう。このものは、すべての剛毅のうちでも、いやがうえにも剛毅である。なぜなら、それはあらゆる精妙なものに打ち勝ち、あらゆる固体に浸透するから。

かくて、大地は創造された。したがって、このものを手段として、驚異すべき順応がなされるであろう。このため私は、全世界の哲学の三部をもつヘルメス・トリスメギトスと呼ばれる。私が太陽の働きについて述べるべきことは、以上で終わる。(平田寛訳)》
(『神秘学の本/学研P104』から引用、平田寛訳)

この文に現れる「このもの」とは、荘子でいう混沌のことや、老子の言う名状せざるもの、言葉で言い表せないものや、大極、第七身体のことではなく、有そのもの、アートマン、第六身体のことを言っているように見える。
なぜならば、このものとは、一つのものだからである。

「このもの」の精妙なる動きをパノラマ的に俯瞰できるポジョンにある者がこの文を書いたものと思われる。全体としては、静的なものでなく、大周天的なエネルギーの動きというダイナミズムを感じさせられる。

【チャクラと七つの身体-358】
◎アートマン-62
10.錬金術 ◎エメラルド・タブレット
(ザ・ジャンプ・アウト412)

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シロシベ

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○シロシベ

シロシベは、精神活性アルカロイドのシロシビンとサイロシンを含有する、80種あると言われる幻覚性きのこの一種であり、世界中どこにでも分布している。

ただし、幻覚性きのこが呪術に結びついたと見られる事例は、南北アメリカにしか見られない。たとえば、紀元前1000年から紀元後300年のグァテマラの遺跡から多数のきのこの石器が発見されていることや、16世紀アステカの愛と春の神ソチピリの彫像の台座にキノコやタバコや朝顔などの精神活性植物のレリーフがある。

その伝統は、マサテコ族のマリア・サビナの他に、ヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥス(カルロス・カスタネダのシリーズ小説で知られる)が生き残っていたことで、現代にまでその技術が伝承されていることがわかる。

人類学者のゴードン・ワッソンは、リグ・ヴェーダに出てくる神々の飲み物ソーマは、ベニテングタケであると考えていたが、偏見なく見れば、シロシベではないという証拠もない。ソーマの特徴とされる以下のものは、3.以外はシロシベにも当てはまってしまう。

1.ソーマは山に生えていた。
2.ソーマには、根、葉、花、種がない。だからきのこであろう。
3.ソーマは、生の絞り汁を飲む他に、それを食した人の尿にも幻覚性成分が残留しているので、その尿を摂取することでも幻覚を得られる。

確かにシベリアのベニテングタケの摂取例では、食した者の尿を飲む話は出てくる。ワッソンは、尿摂取の例として、インドラ神が尿の形で、不死の霊水アムリタをウッタンカ仙人に与えようとした逸話をあげているが、インドラ神が、その直前にソーマを食したということではないので、「尿摂取」がベニテングタケがソーマである証拠にはならない。

この逸話は次のような話である。

インド古代の叙事詩マハーバーラタの中で、大聖クリシュナが、彼が高く評価しているウッタンカ仙人が水を欲しいと望んだ時に、インドラ神に彼にアムリタ(飲むと不死になる霊水)を与えるように頼んだ。インドラ神は、死すべき者に対し、アムリタは与えるものではないと反対したが、とうとうクリシュナの要請に応じて、身分の卑しい漁師の姿になって、アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。ところがこの尿を、ウッタンカ仙人は、怒って飲まなかった。なおも漁師に繰り返し飲みなさいと勧められたが、結局飲まなかった。

結局ウッタンカ仙人は、アムリタではなく、水をいつでも飲めるようにクリシュナから雲をもらった。

シロシベを食した者の尿から、幻覚成分を摂取することが可能かどうかはわからないが、それはシロシベがソーマでない証拠ではないと思う。

不死不壊なるものは、第六身体・アートマンレベルにしかないので、不死の霊薬アムリタは、そのレベルのことであり、既に個人のことではなく、神々のことと考えられる。

【チャクラと七つの身体-360】
◎アートマン-64
11.ソーマ ◎シロシベ
(ザ・ジャンプ・アウト414)

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不連続な意識のスペクトル

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◎ケン・ウィルバーの意識のスペクトル

ケン・ウィルバーは、見たところ只管打坐系冥想による見性体験のある覚者。アートマン・プロジェクトという著書のP218にあるように、未だアートマンの残る十牛図第七図レベルでの世界の統合をテーマに活躍しているように見える。

そしてスタニスラフ・グロフなどのトランス・パーソナル心理学などの古今東西の多くの学者、聖者の見解を取り入れて、意識だけではなく、現象全体の統合、マッピングを図ろうとしている。ケン・ウィルバーにおいても、悟りは意識の深化の延長線上にあるという考え方である。(ただし彼は、宗教によっては、狙いどころが必ずしもアートマンであるとは限らないということも云っている。現世利益を求める宗教は、表向きはアートマンを標榜していることになっているかも知れないが、その実はそうではあるまい。)

そうしたケン・ウィルバーには、定番の意識のスペクトル説がある。これは意識レベルをいくつかに大分割するものであるが、内訳のカテゴリーには更に詳細なものもある。また分割数にもいくつかのバリエーションがあるが、ここでは、近著「インテグラル・スピリチュアリティ」(春秋社)のヴェーダンタなどを参考にした意識の5段階説を挙げてみる。


1.粗大な覚醒の状態
自転車に乗ったり、このページを読んだり、身体運動を行ったりしているときの状態。

2.微細な夢見の状態
鮮明な夢、鮮明な白昼夢、視覚化の訓練、あるタイプの形のある瞑想

3.元因-無形の状態
深い夢のない眠り、広大な「開け」ないしは「空」の体験

4.目撃者の状態
これは他のすべての状態を目撃する能力である。たとえば覚醒状態にあっても、明晰夢の状態でも、目撃者はそれを目撃する。

5.常に現前する非二元的意識
これは状態というよりは、他のすべての状態に対して常に現前する基底(グラウンド)である。そしてそのようなものとして経験される。

ヴェーダーンタもヴァジラヤーナ(金剛乗)も、これらすべての状態(そして、それに対応する身体ないし存在領域)は、「貴重な人体」のおかげで、あらゆる人間に獲得可能であるとしている。この意味するところは、これらの主要な存在と意識の状態は、発達のいかなる段階であっても、程度の差こそあれ、すべての人に獲得可能なのである。それには、幼児も含まれる。幼児もまた覚醒し、夢を見、眠るからである。』
〈「インテグラル・スピリチュアリティ/ケン・ウィルバー」(春秋社)P112から引用〉
ケン・ウィルバーは、「3.元因-無形の状態」から先がアートマン以上だと見ている。

ケン・ウィルバーはこの全レベルを1人称の体験として確認したと述べているので、見性したことで相違あるまい。

ケン・ウィルバーは、アートマン・プロジェクトにおいて、ニルビカルパ・サマディー、十牛図第八図人牛倶忘を、「3.元因-無形の状態」と「4.目撃者の状態」にカテゴライズしている(P162)。つまりケン・ウィルバーは、人牛倶忘は、一つの通過点として見ているのである。

ニルビカルパ・サマディー=十牛図第八図人牛倶忘を過ぎると、次は目撃者と目撃されるものが同一となり、全世界は、発現するものより完全に上位にあって先行しているが、全世界のどの部分も、そこから現れ出る個々の事物以外の何ものでもないとする。要するに個々が全世界と同一になって現れ出でる。これを以って彼は十牛図第十図だとする


またこの5段階は、悟っていない人間から見れば、2と3の間が不連続に見えるが、覚者からみれば、5段階連続している。ケン・ウィルバーは、これを承知しているが、そのことをあまり問題にしないという態度である。

ケン・ウィルバーは「社会全体の自己感覚の平均的あり方」をテーマにしてはいるが、覚者側に立っているがゆえに、その不連続を殊更に強調する必要を認めないというところだろうか。あるいは「社会全体の自己感覚の平均的あり方」からすれば、微細な夢見の状態以下は一顧だにする価値のないものとされるか、存在していないものとされているという現実を踏まえた方針なのだろうとは思う。

【チャクラと七つの身体-361】
◎アートマン-65
12.ケン・ウィルバー ◎不連続な意識のスペクトル
(ザ・ジャンプ・アウト415)

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ケン・ウィルバーの意識状態

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◎見性からの深まり

ケン・ウィルバーはその心理と社会を全部まとめた統合的マトリックス・世界観ばかりが取り上げられている。実際にインタ-ネットで検索してみると、ケン・ウィルバーに関するサイトは、その世界観をとりあげているものがほとんどと言ってよいだろう。しかしながら彼のバックボーンはその見性体験にあり、古代秘教型の、「窮極(神・仏・タオ)からあらゆる現実が発生している」という方向性の説明を、心理学者や社会学者が理論づけしやすいように述べているにすぎない。

だから少なくとも見性体験がない人間が、彼の説が正しいということを、自信をもって確信することはできないのだ。ケン・ウィルバーの周辺には、ヨーギ(ヨーガのマスター)、カバリスト、禅者、冥想を用いるソウシャル・ワーカーなど冥想に縁のある人がかなり多いので、中には何人か見性者がいて、それを実際に確認できている人がいてもおかしくない環境なのだろうと思う。

ケン・ウィルバーは、すでに見性あるいは悟りの体験が何度かあったと述べているが、最初の著書を二十歳そこそこで出版したが、おそらくはそれ以前に、それはあったのだと思う。

ただその体験があった後も結跏趺坐の冥想を20年継続して、一つのテーマを持ちながら冥想を継続していった。それはラマナ・マハリシの「夢を見ない深い眠りの中に存在しないものは、リアルではない」という言葉だった。これは、夢を見ない深い眠りこそが窮極(神、仏、タオ)であるという意味である。

人間には目覚めている状態、夢を見ている状態、夢を見ていない状態とあるが、その見性あるいは悟り体験は、最初は目覚めている状態のときだけに起こったという。ケン・ウィルバーにとってショックだったのは、彼の窮極を認識している状態は、目覚めている時間帯限りで、寝ている時間帯には窮極から離れてしまっていたことであった。それはいかにも本物の状態ではないのである。真正の覚者は、睡眠中でも窮極を自覚しながら意識が継続していることを彼は知っていた。

そして、その後の真剣な坐禅修行を続けていく一方、チベット密教・ゾクチェンのチャグダッド・トゥルク・リンポチェ師の11日間の集中的なセッションに参加した時に、彼の自己というものの大死一番が起こり、自己は完全に死んでしまい、そこから意識が睡眠中でも継続するようになり、それからずっと継続していると述べる。

その状態は、目覚めている状態、夢を見ている状態、眠っている状態の間を移り変わっていっても意識が断絶することなく、そこには明瞭な鏡のような心、「観照者」=本来の自己しかなかったと彼は述べている。この状態でワン・テイストとか、仏性とか、菩提心とか「ブラフマンであるあなた自身のアートマン」(うまい言い方ですね)が現れるとしている。

【チャクラと七つの身体-362】
◎アートマン-66
12.ケン・ウィルバー ◎ケン・ウィルバーの意識状態
(ザ・ジャンプ・アウト416)

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ケン・ウィルバーの結跏趺坐

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◎空とワン・テイスト

アメリカの見性者ケン・ウィルバーは25年も結跏趺坐でやってきたという。私は半跏がほとんどだったが、結跏趺坐で行ってみようと思い直している。いろいろ聞くとやっぱり半跏ではダメかもしれないと思われるところがある。

ケン・ウィルバーは、ヨーガの死体のポーズ(仰向けになって全身脱力。脚を揃え、腕を開いて横に置く)を始めたなどと書いてもいるので、私がヨーガしていても死体のポーズは省略することが多いので、今度は死体のポーズもやろうと思う。

ケン・ウィルバーは、ワン・テイストとは単純な存在の感覚に近いとする(ワン・テイスト(下)/ケン・ウィルバー/1997年11月/コスモスライブラリーP194)。それからすると、ワン・テイストとは、どうもアートマンのことを指しているように思われる。というのは、ワン・テイストは「神が神を神している」感じではないからである。

さてケン・ウィルバーは、以下の文で、純粋な〈意識〉は、三つの状態(目覚めている状態、夢を見ている状態、眠っている状態)すべてに存在する唯一のものだとするが、これがワン・テイストのことであり、アートマンのことであるように思われる。

『4.適応とは単純に、所与の意識レベルとの、不断の、永続する接触を意味する。私たちの多くは、すでに物質、身体、そして心に適応している(あるいは、進化している)。(だから、あなたは自分が望むときにいつでもそれら三つのすべてと実質的に接触することができるのだ)。
何人かは、超個的レベルの至高体験を得たことがある(心霊、微細、元因、非二元)。しかし実際の実践において、私たちはそうした高次の領域の高原体験に進化することができ、さらに実践を積み重ねると、そうした高原体験は永続する適応になることがある:心霊、微細、元因、非二元の機会との不断の接触――自然神秘主義、神性神秘主義、無形神秘主義、統合的神秘主義との不断の接触――それはすべて、現在の意識にとって物質、身体、心がそうであるように、簡単に接触できるようになる。

同じように、これは三つの状態すべて――目覚めている状態、夢を見ている状態(あるいは、サヴィカルパ・サマーディ)、眠っている状態(あるいは、ニルヴィカルパ・サマーディ)――を貫く不断の意識(サハジャ)によって証明される。

そのとき、「夢を見ない眠りの中に存在しないものはリアルではない」という理由が明らかになる。〈リアル〉は、夢を見ない深い眠りを含めた、三つの状態すべてに存在しなければならない。そして純粋な〈意識〉は、三つの状態すべてに存在する唯一のものである。

この事実はあなたが純粋な、空っぽの、無形のに休息して、、、にとどまりながら、すべてのである純粋な、輝くであるの中に解放され、三つの状態すべてが生起し、とどまり、過ぎ去っていくことを「見守る」ときに完全に明らかになる。』
(ワン・テイスト(下)/ケン・ウィルバー/1997年11月/コスモスライブラリーP217-218から引用)

この純粋な意識とは、絶対と相対を見守る時に知る意識ということになる。そして、すべての形である純粋な空とは、色即是空の空のことであり、色つまり現象の生起が意識されているので第六身体=アートマンのことを言っている。アートマンは不変であるが、転々と変化する現象の窮極と呼ぶべきものは、アートマンであるとする。

また輝くすべてであるワン・テイストとは、宇宙意識であり、神のことである。この「輝く」という表現が、パッと入るところが、それを見た者である証拠のひとつになると思う。

これらのことを前提に、彼は、ワン・テイストとは窮極のスピリットだと言い、ワンテイストは時間の中には全くないと言う。そして相対の世界では、アートマン(第六身体、プラトンのイデア界)がリアル(永久普遍の実在)であり、絶対の世界(第七身体、神、仏、タオ)では、アートマンも非アートマンもリアルではないのである。

また、世に言う宇宙意識の体験というものは、彼にいわせれば、ほとんどが、空の一瞥でもワン・テイストの一瞥でもない、単なる神秘感覚的な体験に止まっている。

ケン・ウィルバーは、窮極の悟り(宇宙意識の一瞥)に至るには、禅では平均6年の集中的な瞑想セッションの期間が必要であると述べており、これは、いきなり気持よい体験があってそれを宇宙意識体験と呼ぶのはおこがましいと警告しているのだと思う。ただし前世での修行の成果というもう一つのファクターというものがあるようで、年少の頃から精神の暗夜から宇宙意識に飛び込んでいける人がいることも事実である。

【チャクラと七つの身体-363】
◎アートマン-67
12.ケン・ウィルバー ◎ケン・ウィルバーの結跏趺坐
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ジェドの柱(Djed Pillar)

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◎アンク十字架と日輪盤

ジェドの柱はピラミッドの壁画などによく現れる意匠である。柱の上にアンクがある。ジェドの柱は、オシリスの脊柱とも呼ばれ、また生命の火の泉とも呼ばれる。

生命の火の泉というからには、クンダリーニ・ヨーガ系のシンボルである。この挿絵では、下の方に7層、と殻竿を持つ手の上の方に3層あり、合計10層となり、10チャクラに照応する。

鉤は陰で殻竿は陽。
上から3層目は、コーザル体に対応し、最後の個性というべきものであるが、すでにそれは神に近い位置として神の側に分類しているところが、特徴的である。

柱頭には、アンク十字架が置かれ、さらにそこから両腕が伸び、日輪盤を支えている。既に10層が刻まれており、世界全体を表示し終えているので、このアンク十字架から上は蛇足のように思うが、作者はこの世界全体を俯瞰した感動を伝えたかったのか、日輪盤が語りえぬもの「無記」であり、大日如来であり、梵、ニルヴァーナとしてあり、これを我たるアートマンが両腕を差し出して支えているものとして、描く。

ウパニシャッドでは、梵我の関係性は明瞭に語られることはないが、双方があって、世界の遊戯(リーラ)が展開するのだから、イラストにすればこんな様式になるのだろう。

【チャクラと七つの身体-364】
◎アートマン-68
13.その他 ◎ジェドの柱(Djed Pillar)
(ザ・ジャンプ・アウト418)

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哲学から神へ

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◎ラーマクリシュナの哲学の位置

19世紀インドの聖者ラーマクリシュナの会話の中に、哲学と神との関わりについて注目すべき言及がある。
※タクルとはラーマクリシュナのこと。


校長「この世は、虚構なのでございますか」
タクル「世界がどうしてウソなんだい?そりゃみんな哲学の話だよ。
はじめのうち、”これではない、これでもない”と分別判断している時期は、あの御方は生き物ではない、世界ではない、二十四の(存在)原理でもない、ということになって、こんなものは、皆マボロシだということになる。
そのあとが、ひっくりかえる。そして、あの御方こそが、生物やこの世界になっていらっしゃると、わかるんだよ。

(中略)

”私”という感じはなくならないよ。この”私の頭”があるうちは、生き物も世界もちゃんとあるんだ。あの御方をつかんだら、あの御方自身が生物と世界になっていらっしゃることがよくわかる--ただ考えるだけじゃわからないがね。」』
(人類の知的遺産/ラーマクリシュナ/講談社P187-188から引用)

空海の十住心論の第九住心にも「いわゆる空性は、感官と対象とを離れて、かたちもなく、境界もない。もろもろの無益な議論を越えて虚空に等しい。」とあり、哲学的な客観的世界感に至るが、それは虚構であるという。この認識の状態が、この校長のいう虚構である。

「あの御方自身が生物と世界になっていらっしゃる」のは、第六身体アートマンのレベルであるので、あらゆるものが虚構であるという感じが起こるのは、人間として最後の段階と思われるのでこれは、第五身体コーザル体のレベルであるように考えられる。

「そのあとが、ひっくりかえる。」とは、その後の第六身体アートマンからは、もはや自分の体験ではなく、神が神を体験する状態になることを言っているように思う。クンダリーニ覚醒で、意識がコーザル体に出る前に一定の世界認知が崩壊するポイントがあるが、これが、「ひっくりかえる」プロセスの始まりということになろう。

「この”私の顔”があるうちは、生き物も世界もちゃんとあるんだ。」とは、 第五身体コーザル体以下のレベルで、生き物や世界が、生き物や世界として個別バラバラに存在している状態。このように個別の人間が、分析的な思弁を重ねていけば、「世界は虚構である」という認識と実感に至るが、その先では、ひっくりかえるのである。

空海は、ひっくりかえるという言い方ではないので、ややわかりにくいが、第九住心は哲学的思弁の世界で、次に第十住心の「既にあらゆる迷いの暗黒を離れたので、絶対の無垢である」という表現で、そのニュアンスがあることがわかる。

【チャクラと七つの身体-365】
◎アートマン-69
13.その他 ◎哲学から神へ
(ザ・ジャンプ・アウト419)

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プロティノスの窮極体験

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◎プロティノスの窮極体験

古代ギリシアの哲学者には、ソクラテスやヘラクレイトスなど、窮極を知っていたと思われる哲人が輩出しているが、プロティノスもその一人。

プロティノス(Plotinos, A.D.204- 269)は、エジプトのアレクサンドリア生まれの哲人。プロティノスは、最近はさっぱり読まれなくなったが、久松真一や西田哲学隆盛なりし戦前には、随分と読まれた形跡がある。

彼の神人合一体験は、体外離脱から語られるのが特徴的である。

『私はしばしば肉体(の眠りを)脱して(真の)自己自身に目覚め、他のすべてのものから脱却して私自身の内部へとはいりこみ、ただただ驚嘆すべき素晴らしい美を観ることがあるが、この時ほど、自分が高次なるものの一部であることを確信したことはなかった。
その時の私は最善なる生を生き、神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ、あの最善の生命活動を通して他の一切の知性的なものを超えたところに自らを据えていたのである。』
(プロティノス全集第三巻/プロティノス/中央公論社P322から引用)


「ただただ驚嘆すべき素晴らしい美」は、プラトンが言うイデア界のことであるから、不変の世界、第六身体アートマンのこと、「神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ」とは有の世界のことであるから、相変わらず、不壊の神の世界である第六身体にとどまっていると思われる。

この「神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ」という言葉が、仏教でいう「華厳の統一的世界観」をイメージさせるので、華厳経の世界はこのあたりで見られるのかもしれない。

『しかるに、全く単純(単一)なものに対しては、どのような逐次的思考が(有効で)ありえようか。否、英知的に触れることだけでも、十分なのだ。そして触れた人は、触れている時には、かのものについて何も言うことはできないし、その暇もない。ただ後になって、それについて考えてみることはできるが。

そして人は、魂が忽焉として光をとらえた時に、その時に自分は見たのだと信じなければならない。これ(その光)こそかの者から来たのだし、かの者自身なのである。そして、ちょうど他の或る神が、だれかが勧請した時に、家へ入って照らすばあいのように、かの者が(魂を)照らした時に、その時こそかの神は(魂に)現前しているのだ、と人は信じなければならない。

さもなければ、神はそもそも来もしなかったので、(家を)照らさなかったわけだ。同様に魂も、光に照らされていない時には、かの神を欠いているのである。

しかし、照らされた時には、魂は自分が求めていたものを持っているのだ。そして、これこそが魂にとって真実の目的(完成)である。すなわち、あの光に触れること、そしてそれ(あの光)でそれを観ることが、他者の光でではなく、魂がそれで(諸有を)見るところのまさにその光を(その光で観ることが)。なぜなら、魂がそれで照らされているそのもの(光)、これこそが観られねばならぬものなのだから。なぜなら、太陽にしても、他のものの光で(見られるの)ではないのだから。

では、どうすればそのことが成就するのだろうか。
一切を取り去れ。』
(プロティノス全集第三巻/プロティノス/中央公論社P449-450から引用)

『人は、魂が忽焉として光をとらえた時に、その時に自分は見たのだと信じなければならない。これ(その光)こそかの者から来たのだし、かの者自身なのである。』という部分は、最高者たる神により、神自身を見ていることがわかる。すでにここでは、個なる人間という自分はなく、神が神を体験しているのである。そしてプロティノスは、これが霊魂のファイナル・ステージであると認めている。

弟子のポルフィリオスによると、プロティノスは、生涯に4回ほどエクスタシーに入ったと言われる。また肝心の冥想方法については、只管打坐型でなく、クンダリーニ・ヨーガ型のように思われる。というのは、ダイレクトな体外離脱の表現に加え、プロティノス伝の11にあるが、彼を敵視するアレクサンドリア出身のオリュンピオスが魔術でプロティノスを攻撃してきた際に、それを不成功に終わらせたほどの霊能力を有していた模様だからである。

最後の『一切を取り去れ』は、自分と自分の宇宙をすべて捨てなさいということ。


【チャクラと七つの身体-366】
◎アートマン-70
13.その他 ◎プロティノスの窮極体験
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エレウシスの密儀の謎

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◎デーメーテール讃歌

古代ギリシアのエレウシスの密儀については、ルドルフ・シュタイナーが盛んに言及している。表向きは、毎年の農産物の豊穣を祈願する儀式だ。そこで、いろいろ調べてみたが、密儀参加者は、秘密保持を条件に密儀参加が義務づけられていたことから、エレウシスの密儀そのものがどのように行われていたかは、定かでないことがわかった。

しかしエレウシスの密儀発祥の神話とされるホメーロスのデーメーテール讃歌のモチーフが、非常に古事記と共通するところがあるのが気になる。

デーメーテール讃歌の粗筋:

『豊穣の女神デーメーテールの娘ペルセポネが、死者の国、冥界の王ハデスにさらわれてしまった。

母デーメーテールが娘の行方を尋ねて世界中をさまよううちに、地上に五穀が実らなくなった。
デーメーテールは、ペルセポネの行方を知らなかったが、その行方を知るまでは放浪から戻らないと言い張った。

そのため神々の王ゼウスが、ハデスにペルセポネをデーメーテールに帰すように言い、ハデスはそれに同意した。しかしハデスは、こっそりザクロの実をペルセポネに食べさせたため、冥府と完全に縁が切ることができなかった。というのは、死者の国の食べ物を食べた者は、完全に冥府を去ることができないという。

ペルセポネは、デーメーテールとの再会を果たしたが、ザクロの実を食べたばかりに、また冥府に戻らなければならないことを知った。

そこでゼウスは、1年のうち1/3を黄泉の国で暮らし、残り2/3の春から秋までを地上で母デデーメーテールと暮らすという条件で、デーメーテールの怒りを鎮め、地上の穀物の実りを復活させた。』

まず豊穣神デーメーテールが、娘を探して地上をさまよう間に穀物が実らなくなるのは、古事記の天照大神の天の岩戸隠れと似たモチーフである。この問題を解決することを軸にデーメーテール讃歌は展開するが、古事記の冒頭も天の岩戸隠れを軸に話題が進行する。

次に黄泉の国の食物を食べた者が地上に戻れないというのは、黄泉の国のイザナミの命が黄泉の国の食べ物をとったことを理由に地上に戻れないとしたことと同じモチーフである。

天照大神は、主宰神であるが、デーメーテールはそうではないという違いはあるが、エピソードの展開が非常に似通っていることは、両者のモチーフの出所をたどっていくと、共通する何かに出会う可能性がある。つまり、どちらもイデア界つまり、アートマン、第六身体という変わることのない世界の出来事を写しているのではないかということ。

【チャクラと七つの身体-367】
◎アートマン-71
13.その他 ◎エレウシスの密儀の謎
(ザ・ジャンプ・アウト421)

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見性・見神の希薄化

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◎見性・見神の希薄化

見性、見神とは、本来の自己たるアートマンを目撃すること。
死の世界に入った場合、どこでそれを目撃しているかを確認するために、手近な霊界探訪譚をひもといてみよう。すると地獄の真っ暗闇な場所を除けば、あの世では、ほとんどどこにいても霊界太陽(中心太陽)が目撃できることを知ることになる。

すなわち死の世界に入りさえすれば、まず本来の自己を目撃できるということになるということ。こういうことが起きる原因は、微細なボディにおいては感覚が鋭敏になるせいだと簡単に片づけることもできるが、事態はやや複雑である。

というのは、このことは、死の世界に入った瞬間に、見性・見神・見仏が発生するということを意味するからである。つまり死の世界に入ったことのある者、たとえば臨死体験者やアストラル・トリップする人は、ほぼ一律に菩薩と位置づけられるのではないかということなのである。

換言すれば、クンダリーニ・ヨーガの修行プロセスにおいて、一旦死の世界に入ったことのある者は、その後は菩薩としての修行を歩むことになるとも言える。

さて一口で死の世界、あの世といっても、エーテル体宇宙、アストラル体宇宙、メンタル体宇宙などいろいろな次元がある。最も一般的なアストラル体宇宙の死の世界に入る場合であってすら、この世からあの世に至る中途の道程をきちんと知覚できる人は稀で、大方ははしょって三途の川と認識することが多い。

このように、その世界に入ることと、そのことをきちんと評価できるというのはまた別物なのだろうと思う。そしてまたその違いは想像以上に大きなものであるように思う。つまり一括りに菩薩になったといっても、そのにわか菩薩のレベルは実はピンからキリまであり、程度のばらつきがすこぶる大きなものではないかと思われるのである。

要するにアストラル世界を水平に動き回ることは容易かも知れないが、その本質を見極めて、その上位たるメンタル体世界からコーザル体世界、アートマンと垂直上昇することこそが、この「きちんと評価する」ということだろうと思う。それほどに「きちんと評価する」ということは、簡単ではなく重いこと。

その意味からすれば、巷間にはびこるアストラル霊界のみ知る霊能力者の霊言などとるに足らないものと位置づけられるように思う。

仏教では、菩薩は52の位階に分類される。最上位が妙覚で、第2位が等覚、空海は長安にいた頃第10位の発光だったことが知られている。菩薩のようにとりあえず悟ったことのある者に対して、一体誰が何のために52ものランクを付けたのか、かねてより疑問に思っていたが、上に述べたような消息であれば、その理由が推し量れるように思った。

つまりクンダリーニ・ヨーガ修行の途上で、死の世界にあっては、見神、見性の意味合いは相対的に希薄化するためではないかとうこと。

【チャクラと七つの身体-368】
◎アートマン-72
13.その他 ◎見性・見神の希薄化
(ザ・ジャンプ・アウト422)

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タロット・カードの順序

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◎生の世界と死の世界

タロット・カードの大アルカナ22枚の順序は、最も普及しているウエイト版で、こんな風になっている。

0 愚者(道化師)
1 魔術師
2 女教皇(女司祭長)
3 女帝
4 皇帝
5 教皇(法王、司祭長)
6 恋人達(恋愛、恋人)
7 戦車(征服者)
8 力(剛毅)
9 隠者
10 運命の輪(運命、運命の車)
11 正義(裁判の女神)
12 吊された男
13 死神
14 節制
15 悪魔
16 塔(神の家)
17 星
18 月
19 太陽
20 審判(永劫)
21 世界(宇宙)

まず何で22なのかということについては、ヘブライの生命の樹の球が10個で、これが10チャクラに照応し、さらに生命の樹の球を結ぶパス(径/道/直線)が12本あり、この合計が22であることと、ヘブライ語アルファベット22文字に対応するとされる。

ヘブライ語アルファベット22文字との対応は、もともと黄金の夜明け団で秘密とされていた情報であって、これをアレイスター・クロウリーが暴露したもの。

ヘブライ語のことは詳しくないので専門家に任せるとして、とれが10球でどれが12パスなのかということがまず問題となる。

まず0愚者と21世界。これは明かに愚者がニルヴァーナであり、世界は有の側であるから、アートマンである。

アートマンの側には生の世界と死の世界がある。
そこで全体の並びを見渡してみると、12吊るされた男の次に13死神があって、13から死の世界に入る。つまり13以降は死の世界、つまり肉体の世界ではないのだろうと考えられる。

13死神から21世界までが9枚でこれに0愚者を加えて10枚が生命の樹の10球に照応すると見る。ただし10チャクラは惑星に照応させるのが伝統的なのだが、死神、節制、塔など、概念の属性が揃っていない呼称となっているところに、土俗的シャーマニズムの影を見る。

12のパスの方は、生の側。
1魔術師から始まるが、これは個性、個人の総合的表象と見る。個性、個我の極北では12吊るされた男により世界が逆転する。従って2女教皇から11正義までは、十牛図みたいに個我、自我が極大まで発展する過程を描くもので示すのが正当なのだろうと思うが、5教皇、6恋人達、7戦車、8力、9隠者などと進むのではその狙いは完全にはぐらかされて深い歴史の闇に紛れてわからなくなっていると評すしかないと思う。

以上が私のタロット・カードの並びについてのファースト・インプレションである。

【チャクラと七つの身体-369】
◎アートマン-73
13.その他 ◎タロット・カードの順序
(ザ・ジャンプ・アウト423)

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OSHOのアートマン

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◎アートマンとブラフマン

OSHOも七つの身体論者だが、第五身体以上に特徴がある。
「瞑想祝祭のアート/バグワン(メルクマール社)」(P317)の七つの身体とは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、スピリチュアル体、コスモス体、ニルヴァーナ体。
コスモス体は時にコズミック体と訳されていることがある。

OSHOバグワンはコーザル体という言葉は用いないが、第五身体のスピリチュアル体がアートマンであると明言しているわりには、その性質の説明は、コーザル体の性質のように思われるところが多い。というのは、第五身体には個が残っているとしているからである。そうしたやや矛盾したともとれる言説は次のようなものである。


第五身体のことをアートマ・シャリールと呼ぶ(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P132)
彼はアートマンこそ第五身体だとも言う。

『第六身体は、ブラフマ・シャリール――コズミック体だ。人は
アートマンを超えて進化し、アートマンを手放す覚悟ができた時、6番目の身体に入る。』(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P133から引用)

この文を見ると、アートマンが第五身体で、ブラフマンが第六身体であるとOSHOバグワンは考えていることになる。

第五身体では、「私は在る」だが、これが、第六身体になると「私」が取れて単なる「在る」になる。(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P182-189による)

第五身体までは、母親の子宮からの誕生だが、第六の次元では、「自分自身」からの誕生だ。(上掲書P360による)。彼は「二度生まれた者」と呼ばれる。(上掲書P361による)

「第五から第六へは誕生があり、第六から第七へは死がある。」(上掲書P362から引用)子宮なしの誕生と子宮なしの死。(上掲書P362による)

ラジャ・ヨーギは第六段階まで至るのだが、彼にはエゴを失う用意はあるが、彼の「在ること」を失う用意はない。(上掲書P209による)



第六身体の大気圏は創造と破壊。瞬間ごとに創造が起き、瞬間毎にあらゆるものが破壊していく(瞑想祝祭のアートP329)


更に
『ブラフマ・シャリールすなわちコズミック体に到着すると、立ち止まってしまう瞑想者もいる。何しろ「私が」存在せず、ブラフマンだけがある時の「アハム・ブラフマスミ」のうちの「私はブラフマンだ」という状態に達したのだから。』(奇跡の探究2巻P189から引用)

ここでは、私がブラフマン(奇跡の探究2巻P189)。ブラフマンとは全一(トータル)という意味。つまりOSHOバグワンにとって第六身体とはブラフマンだったのだ。ブラフマンは有の側であって、無の側でない。

『第五から第六へは誕生があり、第六から第七へは死がある。』(奇跡の探究2巻P362から引用)

『誕生はブラフマンに、死はニルヴァーナへとあなたを導く』(奇跡の探究2巻P363から引用)

第五身体スピリチュアル体についての彼の微妙な説明は、OSHOバグワンのことだから、故意にひっかけとしてそういう説明をしている可能性はある。ただ、彼が、七つの身体について微に入り細に入り説明してくれた稀有な存在であることは言うまでもない。彼の多くの暴露によって、人類は次の時代の手がかりを無数に手に入れることができたのだ。

【チャクラと七つの身体-370】
◎アートマン-74
14. OSHOのアートマン
(ザ・ジャンプ・アウト424)

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ダンテス・ダイジのアートマン

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◎有相三昧=ウィリアム・ブレイク

ダンテス・ダイジのアートマンとは「この一なるもの」であり、
「一切万象、多様次元自身が目覚めている」ことであり、
彼はそれを未公刊の詩集『老子狂言』のウィリアム・ブレイクという詩で表現している。

ウィリアム・ブレイク

そうなってゆく そのままでよいのだ。
人は喜び悲しむために産まれて来たのだ。
だが、この絶対者は違う。
絶対者は
喜怒哀楽から離れて、
喜怒哀楽を戯れ
そしてまったく同時に
喜怒哀楽を超越して
絶対の流れを流れ続ける

そして絶対者は、
すべてのすべてで久遠にいませり!
存在と非存在とに何のかかわることもなく。
私が絶対者なのだ。
ほんの卵だけれどもね・・・』

人の視点と絶対者の視点は違うものだ。個人の感傷や倦怠やこだわりなど意に介することもなく、久遠に流れ下る大河の如く、永遠不滅の絶対者は、在る。

逝くものはかくの如きか。

個は、永遠不壊の絶対者から出るのだが、個であるときは、ちっぽけで卵だと、謙譲こそが基本姿勢であることを忘れない。

【チャクラと七つの身体-371】
◎アートマン-75
14. ダンテス・ダイジのアートマン-1
(ザ・ジャンプ・アウト425)

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OSHOの誕生日

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◎あなたはブラフマンの夢 そしてあなたは私自身

12月11日は、OSHOの誕生日である。またこの日がダンテス・ダイジの命日でもあることは、知る人ぞ知る。

これによって、この二人が全く無関係ではないことに、薄々気がついている人もいるだろう。

誕生が、子宮を選定し、そこにダイブするという、バンジー・ジャンプばりのイベントであるように、逝去も肉体の頭頂ないし他の部位から脱出するという偉大なパフォーマンスであり、占星学的にわざわざ射手座のこのポイントを使って来るのは、それぞれ、誕生と逝去という違いはあっても無視できないファクターであると思う。

京都に一条戻り橋の伝説があるが、ゾディアック(十二宮)上にある、聖者専用の、あるいは転生が終りに近づいた人間のための、あるいはまたアトランティス以来のさる使命を持った人間が往還するための、一条戻り橋みたいなポイントがこの日なのだろう。天球上の愛のポイント。

ダンテス・ダイジはここで有の側のブラフマンを謳う。


ダンテス・ダイジの詩。
『そしてあなたは私自身

幾度も幾度も繰り返される夢
夢見つづけるブラフマン
無数の意識の流れ
輪廻し 上昇しあるいは再び下降し
そして帰り着こうとする流れ

眠り続けるブラフマン
一人の人間の中にある無限の宇宙
あらゆる生類達の多様多元の宇宙
一人の人間の中に接弦する多元宇宙 
夢見つづける宇宙

久遠の時の中の遠い遠い夢
うつし世の胸高鳴る甘美な悦び
そして苦しみ 深い深い嘆き
夢見つづけるブラフマン
目覚めることのない久遠の夢
すべてを秘めて眠るアガシャの夢の海

全智全能を内包した一つぶの砂
アガシャの想念の海を泳ぐ無数の生命達
あらゆる想念を具現しまた破壊する
ブラフマンの化身シヴァ
破壊と殺戮の神シヴァ
そして私自身なるシヴァ
私の手は無限の宇宙を握りつぶし
私の足は永遠の歴史を踏み倒す

シヴァなる私は踊り狂う
眠り続けるブラフマンに気使うことなく
夢の宇宙に私は踊る
モンゴルの平原にさまよう旅人も
私の酒くさい一息が
その全身に吹きかかれば思い出す
すべてを旅人は思い出す
あなたはブラフマンの夢
あなたはシヴァの化身
時には あなたはブラフマンそのもの
そしてあなたは私自身 』
(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジ/森北出版社から引用)

【チャクラと七つの身体-372】
◎アートマン-76
14. ダンテス・ダイジのアートマン-2
(ザ・ジャンプ・アウト426)

ニルヴァーナ-1

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◎人間が正気で生きる唯一の道


世の中には3種類の人間がいて、神に出会ったことのない人、神に出会った人、神に出会ったことはあるがその体験が薄れてしまった人がいる。3種類の人間それぞれに求道の道があるが、神に出会ったことのない人がほとんどである以上は、「神に出会ったことのない人にとってのニルヴァーナ」こそが、現代世界に突き付けられた揺るぎない公案である。

神知らぬ者に対して、神がニルヴァーナであると声高に唱えても、それへのリアクションはあまりにも多様に過ぎる。
それでも敢えて神に出会ったことのない私ごときがニルヴァーナを語るのであるが、実はこれこそ現代人にとって切実にして最も重要な関心事なのだ。

神から遠く離れた現代人は、いわば『狂気』を生きている。『狂気』とは神なくして生きるということで、傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、貪欲(暴食)、色欲、怠惰などあらゆる悪徳を産む原因がこれである。

現代は神無き時代と言われて久しいが、神なくして生きる人間の姿のそれ恐ろしさを内心感じている人間だけが、ニルヴァーナ・神を遠望し、何とかアクセスしようと試みるものである。

現代人の日常生活に不可欠でありながら、欠けているものがニルヴァーナ。ニルヴァーナを生きるとは、せんじ詰めれば天命・天意を生きるということだと思うが、それができている人があまりにも少ないということである。

ニルヴァーナを生きるとは、人間が正気で生きる唯一の道なのだ。たとえニルヴァーナが人間の都合に全くおかまいなしだとしても。

【チャクラと七つの身体-373】
◎ニルヴァーナ-1
1. ニルヴァーナ-1
(ザ・ジャンプ・アウト427)


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ニルヴァーナ-2

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◎無の側の顔

さて、いわゆる神、仏、タオには2つの顔があり、有の側と無の側である。どちらが奥かと言えば、無の側である。有の側はアートマンであり、ブラフマンであるのに対し、無の側はニルヴァーナである。古代インドのテクニカル・タームで言えば、アートマン、ニルヴァーナだが、古神道では、有の側が天照大御神と素盞嗚神の事であり、無の側が、天御中主神。出口王仁三郎はニルヴァーナである天御中主神の特性を無形、無声。無限絶対、無始無終の宇宙の大元霊と評す。いわゆる大神とは、無の側の方である。

キリスト教の旧約聖書では、天地を創造する以前の神が無の側であり、最初の天地は有の側である。禅の十牛図では、有の側は我であり牛であり、無の側は一円相。このように伝統ある世界宗教には、大概神について、有の側の呼び名と無の側の呼び名があるものだ。


ニルヴァーナは、七つの身体でいえば、第七身体であるが、個別性はなく、人間の側のものでもない。

何より言葉で表現できないものであるので、暗喩たるシンボルで指し示すことしかできない。それは禅の十牛図第八図の一円相だったり、大日如来だったりする。また仮に名をつけて、仏教では涅槃であり、禅では無、老子では道、古神道では天御中主神、キリスト教では神、インドではニルヴァーナなどとして、呼び名は異なる。

ウパニシャッドでは、アートマンが有って、次にブラフマンが来て、更にニルヴァーナは別格という登場の仕方だが、それ以上の関係を詳述していない。ところが、ダンテス・ダイジは、これをブラフマン(中心太陽=絶対光)突入への最終段階で、アートマンの光線の軌道がブラフマンに向かい、その次にニルヴァーナのステージに進むことをカミング・アウトしたのは空前絶後のことであった。

☆ニルヴァーナと冥想
◎神・仏・ニルヴァーナについての共通認識がない
◎二種類の効果
◎スピリチュアルの暗号解読


☆道教・儒教
◎太沖
◎古の真人とは
◎玄のまた玄は衆妙の門なり
◎孔子の見ていた悟り
◎未発の中

☆仏教
◎ダライラマの菩提心のポジション
◎芭蕉 幻住庵記
◎只管打坐のポジショニング
◎大地震の八つの発生条件
◎覚鑁(かくばん)の阿字観
◎阿弥陀仏はニルヴァーナの展開だった
◎ダルマの説明の仕方

☆古神道
◎天照大御神のジェンダーの変容
◎天の数歌
◎一厘の仕組

☆ニューエイジ
◎奥深い心
◎コミューン-一定数の覚者
◎クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も

【チャクラと七つの身体-374】
◎ニルヴァーナ-2
1. ニルヴァーナ-2
(ザ・ジャンプ・アウト428)


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神・仏・ニルヴァーナについての共通認識がない

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◎神なき時代

現代人が冥想という習慣の必要性を全く理解しないことについての理由は、まず神・仏・宇宙意識そのものが、自分とは縁の遠い他人事であること。

たとえば自分が神の現れだ、他人が神の現れだなどと言っても、とても神だとは思えないような人が多いこと。

また自分の境遇がミジメで、神の現れである自分がこんなにひどい生活をしなくてはならないことに感情的に納得がいかないこと。こんな生活に神の全能性を感じ取ることができないというのは、生活者、消費者の意識としてはもっともなことである。

結局まず、神・仏・宇宙意識・ニルヴァーナがどのようなものか、正しいイメージ、共通認識をもってもらうことが必要なこと。そしてそれは結局、概念やイメージで捉えられないことと、直接的には、自分の生活や資産や収入の向上などの物質的なものとは全く関係のないものであることを認識してもらうことなのだが。

次に冥想が神・仏・宇宙意識に近づく手段であるという認識がないこと。

それに到る手段は、常識的には冥想しかないことを、古今東西の聖者の修行カリキュラムを通して理解してもらうこと。これは前の課題に比べると簡単かもしれない。

トータルで見て、これだけ理屈のとおらないことを、かなり運良く、理論的に納得しても人は行動に遷していくものではない。感動が人を動かすのである。

イエス・キリストはパンの数を増やしたりして、本来ご法度であるはずの超能力を駆使して、人々に感動を与えて行動に移させた。

今の時代は自分の身近に神を生きる人がたまたま居て、その無私で率直な生き方から感動をもらって、それを糧にして冥想の習慣を始めるということになろうか思う。

ところが身近なところに無私な生活をしている人がざらにいれば、こんなにお粗末な時代にはなっていない。感動を与えてくれるべき聖なる友人などなかなか見つかるものではない。

この三重苦のステイタスが、神なき時代と呼ばれる。
神の正しいイメージも持たず、冥想もせず、知り合いに覚者もいない。

【チャクラと七つの身体-375】
◎ニルヴァーナ-3
2.ニルヴァーナと冥想-1 ◎神・仏・ニルヴァーナについての共通認識がない
(ザ・ジャンプ・アウト429)

二種類の効果

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◎釈迦の選択

釈迦出家した直後に師匠を選ぶ段になって、天国に生まれ変わることを目的として修行するのか、もう再生することのない解脱(神人合一)を目的として修行するのか、どちらかを選択することになった。

釈迦は勿論解脱の方を選んだが、冥想の効果には、このように天国に再生することに代表される実用性つまり現世利益・願望実現と、全くそれを越えた解脱、つまり涅槃・ニルヴァーナ・絶対無・宇宙意識という2種類がある。

殊更に冥想というしゃちほこばった形式・表現をとらなくても、現世利益・願望実現のテクニックとは、それぞれの人がそれぞれにそのやり方を心得ながら、受験や恋愛や蓄財や出世などの願望を実現しようとする時に、意識的に無意識的に心得ているものであるように思う。

現世利益・願望実現のテクニックの代表格は観想法になるが、これは密教の冥想手法の中心となるものである。密教では、観想対象として高級神霊である尊格を用いることが多いが、その対象を具体的願望に置き換えたのが、マーフィなどの願望実現法であるといえる。

こうした現世利益・願望実現以外に関心のない人には、これ以上冥想テクニックの話題を勧めても何の意味もない。

冥想の効果のもう一つである解脱、つまり涅槃・ニルヴァーナ・絶対無・宇宙意識の問題点は、それがあまりにも、世間の人が考えている解脱のイメージやニルヴァーナのイメージとはかけ離れ過ぎていることである。

世間の人の大方は、ニルヴァーナとは、涅槃寂静というくらいだから、自分の心境がとても静まり返りすぎちゃった時に、大宇宙とひとつになったようなスッキリした気分になってしまうみたいな、自分のちょっと変わった心理状態であるように想像するが人が多いと思う。

ところが実態は全然そうではなくて、自分の心理のひとつの状態のことではなくて、自分の生きている世界や宇宙全体がひっくりかえってしまうようなことであるのだ。

ここが、現代人には最も理解も想像もされにくいところであると思う。なぜならばそれは、日常の生活実感からすればとんでもないことであり、自分には何も得になることではないからである。

【チャクラと七つの身体-376】
◎ニルヴァーナ-4
2.ニルヴァーナと冥想-2 ◎二種類の効果
(ザ・ジャンプ・アウト430)

2014年の終わり

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◎なづな七草 唐土の鳥が渡らぬさきに

2013年8月にスタートした、七つの身体全体を網羅することを意識した「ザ・ジャンプ・アウト」のシリーズも、ようやく七つの身体の最終コーナーであるニルヴァーナの章が来年1月に終わろうとするところまでこぎ着けた。時に迷宮と呼ばれるこのブログもこれによって道に迷わないで、ある程度の正統な神・仏・タオのイメージを結ぶことができる人が増えてくれれば幸いである。

「ザ・ジャンプ・アウト」のシリーズの七つの身体と言えば、20世紀初頭に活躍したブラバツキー夫人の神智学一派の言及したものを指すと説明される場合があるが、実際は、OSHOバグワンやダンテス・ダイジもその説明の根幹に置いたように普遍的基礎的な概念である。

現代アメリカの覚者ケン・ウィルバーは、七区分さえかなり柔軟にとらえており、ニルヴァーナとアートマンについてはどの覚者もほとんど共通した捉え方をするが、コーザル体以下は、人によって捉え方はバラバラなものであると見ている。ここにケン・ウィルバーは、宗派の違いを超えた宗教の本質的な共通性を説明することに成功したと言える。

あらゆる宗教に通底するものが七つの身体であるということになれば、次はそれに至るメソッドとして冥想が再評価されることになる。ニルヴァーナに至るメソッドとしては、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガが最適とされるが、それを論証することは容易ではない。

例えば只管打坐。結跏趺坐あるいは半跏趺坐という固定した姿勢で坐って起こるのは様々な冥想の広がりであって、最後に黙照枯座たる只管打坐が起こる、そして身心脱落に至るだろう。このプロセスは今のところ論証できないから仮説に過ぎないが、中国の雪巌祖欽禅師の冥想修行のエピソードを読むと、公案中心であってずっと只管打坐ばかりやっていたわけではないが、移りゆく冥想それ自体の展開というものを想像させるものがあり、最後には大地が落ち込む感覚といともに、ニルヴァーナに行きついており、「身心脱落」というネーミングの由来を思わせる次第になっている。

公案をやったり、無字マントラをやったりして、只管打坐が起こったのはいつかは明確には書いていないから、論証はできないということである。

クンダリーニ・ヨーガに比べれば単純そうな只管打坐でもこのような具合であるから、ましてクンダリーニ・ヨーガについて大要を示し論証するなどというのは、もっと至難の業である。

現代人は知性が発達して、論理的に明快でないものは信用しないが、こんなわけで頭の良い人ほど「特定の冥想手法で悟りに至る」などということは信じないということになる。この結果拝金教がはびこり、多くの狂人が街を闊歩するという恐るべき事態になっている。

さて、このブログの全体のバランスを見ると肉体を鍛えるハタ・ヨーガの部分が少ないのだが、今年のテーマは肉体だった。いろいろな不調の自覚から晩秋から毎日ジョギングめいたものを始めた。これによって、若い時から毎年11月は不調に苦しむことが多かったのだが、全体として爽快な日々を過ごすことが出来たのはとても意外なことだった。


中高年はウォーキングを勧められることが多い事、そして冥想修行者は、風雪のヒマラヤの5千メートルの一夜を露天で坐禅の姿勢で肉体の内部から暖めて乗り切った河口慧海のように冥想による内分泌腺の活発化により寒中でも汗をかくほどではないといけないという先入観もあり、なかなか走るようなことをしようとまでは思わなかった。しかしながら、老境に至っても肉体も軽いジョギングなどで上手に鍛えていけば、ある程度の快適さは回復できるという実感を得たのは望外のことだった。
(※アマゾンのkindle本で河口慧海のチベット旅行記はなぜか無料になっています。)

来年は、このようなテーマもやりたい。
1.依存(ギャンブル依存、薬物依存、ゲーム依存、スマホ依存、アルコール依存など)というものが洗脳手法の発展と相まって、多数の精神異常者を醸成していること。
2.個人主義なライフ・スタイルになりきれない日本人とそのシンボルとしての猫、背景として忍び寄る貧困。

そして政治・軍事。米国の軍事力の弱体化により、中国、ロシア勢力と朝鮮半島、中東、ウクライナを舞台にした軍事衝突の可能性が高まっていること。今や軍事専門家でなくとも、この程度のことは様々な報道で推測できるレベルになった。スノーデン事件、マレーシア周辺で航空機が3機墜落ないし不明になっていること(ウクライナでの撃墜も含む)など全貌が明らかになっていない国際的大事件が続くのはそうした国際パワー・ポリティクスの不安定さの反映と見える。特にオバマが中国寄りであるがゆえに中国が何か仕掛けるならオバマ在任中だろうと思う。択捉島にロシア空軍基地が完成し、中国軍艦は日本列島の周囲を繰り返し、まさかの本土空襲があってもおかしくない時代になってきた。来年は大乱を予想する人が多いが、そのとおりだと思う。

出口王仁三郎が随筆集玉鏡で、『昔から「なづな七草 唐土の鳥が渡らぬさきに云々」 と云ふ歌がある。これは唐土の鳥即ち外国の飛行機から毒瓦斯(毒ガス)を投下するその時に、七草を食べて居れば毒瓦斯にあたらぬと云ふ予言警告である。
 なづなと云ふのは冬青々としたもので、松葉でも葱でも皆薬となるものである。七草は七種の意である。』というのは、この時代のことを詠んだものだと思う。


この一年ご来訪ありがとうございました。来年が良い年でありますように。

スピリチュアルの暗号解読

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◎海王星の発見から

『ヒエログリフの解読と次の海王星の発見には似たところがある。

誰も実際に目にしたことはなかったが、この惑星の位置は当時ケンブリッジの学生だったイギリス人のジョン・アダムズが計算していた。彼の発見はロンドンの王室天文官に伝えられたものの、実際に調査されることはなかった。イギリスではよくあることだが、素晴らしい発見は応用に結びつくことなく放置された。

一方、パリのユルバン・ルヴェリエが同じような計算をして、その結果をベルリンに送っていた。ベルリンの天文官はすぐに望遠鏡を空の正しい方向に向け、その結果、1846年に正式に海王星が発見された。』
(ヒエログリフ解読史/ジョン・レイ/原書房P67から引用)

悟りのピークにある、ニルヴァーナ、宇宙意識、禅の無、タオ、古神道の天御中主神、キリスト教の父なる神、こうしたものは、ほとんどの人は実際に目にしたことはなかったが、覚者は口を揃えて、有るという。

それを見る方法は望遠鏡ではなく、冥想である。

ウパニシャッドによれば、人は冥想によってニルヴァーナに至るという。
密教文献によれば、人は観想法を中心とした冥想により、大日如来に至るという。
道教の慧命経によれば、陽神が妙道を通って虚無と化していき、ついには日も月も忘れて寂浄にして霊虚なる一円相(太乙)にたどりつくという。
禅メディテーションの只管打坐によれば、身心脱落して、すべてのすべてとなるという。

つまり海王星のように、ニルヴァーナ・大神・究極の存在は既に知られていたわけである。

それでもって、世話好きな覚者中の覚者は、これらによって至るところは同じだという。それを証明することは、暗号解読と同じ。それを解読することはできるだろう。一人ができたとしても万人がそれらメソッドで悟りに至ることを実現するのは、OSHOもぼやくように更に無謀なチャレンジにも思われる。

さて、一人の人間がそれらすべての冥想ルートを実体験したとしても、万人がそれを実体験しない限り、同じ究極を実現できる法則であると主張できはしない。また個人の体験を離れて理論で説明しようとかかっても、生の世界はいざ知らず死の世界をも包摂した説明の妥当性を検証する論理、世界観は今の時代には通用しない。

ここに望遠鏡に相当する様々な冥想手法がある。しかし手法はあるといっても、冥想道には必ず二重の不確実性(魂の経験値の問題と冥想手法とその結果がリンクしない問題)というものがある。その不確実性こそ、証明を拒むものなのであるが、その壁を突き破るものがあるとすれば、「本気で」「真剣に」「誠実に」それに取り組むということだろうか。もちろんそこでは、本気度、真剣味、誠実さの純粋無雑が問われていく。

一人が悟れば、次々に悟る・・・そういう可能性が喧伝されている以上は、まず自分から悟るチャレンジこそが最優先されるのだとも思う。

【チャクラと七つの身体-377】
◎ニルヴァーナ-5
2.ニルヴァーナと冥想-3 ◎スピリチュアルの暗号解読
(ザ・ジャンプ・アウト431)

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