Quantcast
Channel: アヴァンギャルド精神世界
Viewing all 3535 articles
Browse latest View live

太沖

$
0
0
◎ニルヴァーナを霊能力者が見立てる

荘子の応帝王篇から。
『鄭の国に季咸というシャーマンがいた。このシャーマンは極めて有能であって、人の死生存亡、禍福、長命短命をことごとく予言し、的中せしめた。

ある日列子が、このシャーマンに会って、とても興奮して師匠の壺子にそのことを語った。すると壺子は、お前は修行中の身でまだ真実を得ていないが、面白そうだからシャーマンをここに連れてきなさいと命じた。

翌日3人が顔を合わせたところ、季咸は、列子に、「湿った灰が見えます。あなたの先生の壺子は、10日以内に死ぬでしょう。」と予言した。

列子は、この悲劇的内容を涙で襟を濡らしながら壺子に告げると、壺子は、「なあに、わたしは、徳が塞がれる機(杜徳機)つまり地文という生命は内に含むが動くでも止まるでもないふうを見せただけだ。もう一度連れてきてみなさい」と。

翌日また3人で会った。今度は季咸は列子に、「生命の芽生えが見えます。あなたの先生は、すっかり元気になるでしょう。」と語った。
これを聞いた壺子は、「なあに、わたしはあいつに天地を見せてやっただけだ。生命の機(善者機)が踵から出ている様子をな。また連れてきてみなさい。」と解説した。

翌日また3人で会った。三度目は季咸は列子に、「あなたの先生は斎戒しないので占えません。斎戒してからまた占いましょう」と言うので、列子は壺子に斎戒を頼んだ。
すると壺子は、「わたしは、さっきは太沖莫勝を見せてやったのだ。」

更に三人はもう一度会うが、季咸はその回では、壺子から何も感じることができずに逃げ出した。

この事件を機に列子は三年間家を出ず、修行に真剣に打ち込むことになった。その間、妻の代りに飯をたき、豚に人間と同じ食物を与えるというあらゆる先入観から離れた生活を行ったという。


さて太沖とは大いなる空虚のこと。そして莫勝とは、勝(まさ)るものなし、だから太沖莫勝とは至上の空虚のことであって、相応するものとしては、ニルヴァーナがそれに当たるように思う。

太沖については、この件の霊能力者が見極められなかったというだけでは、説明が不足しているように思う。


さて淮南子の詮言訓。

ここでいう君子は、菩薩くらいの人。つまり悟った人だが、十牛図第三図程度のイメージか。

『君子は善行を行っても、幸福が必ず来るようにできるものではない。また悪行を行わなくとも、不幸が来ないようにしむけることもできない。

幸福がやって来ても求めてそうなったのではないから、それを自慢してはならず、不幸(禍)がやってきても、その原因を作ったわけではないから、その行動を後悔しない。

内面の修行が完成しても、不意の災禍がふりかかるのは、みな天がそうするのであって、人間のしわざではない。

故に心中が常に平静であって、その徳を損なわなければ、犬が吠えても驚かず、自分の本性(情)を信じる。

故に道を知る者は惑うことなく、(自分の)天命を知る者は憂うことがない。

万乗の君主は亡くなればその遺骸を広野に葬るが、その魂魄は明堂の中に祀る。このように精神は、肉体・物質(形)より尊い。故に精神が優位となれば肉体・物質はそれに従い、肉体・物質が優位となれば精神は窮迫する。

肉体・物質など外的なものについて聡明に立ち回っても、必ず最後は精神に戻ってくる。

これを太沖という。』

その核心は犬が吠えても驚かないという程度のものかと思われるかもしれないが、ここでは積善と禍福を引き合いに出して、自分は善行しか行わず悪事をしないが、そんな自分に何がふりかかろうがそんなことは自分が知ったことではないというのが基本的な態度であることを説明している。

これは高度に私欲を捨て去った生き方であって、なかなかできることではない。犬に吠えられてもビックリしない所に話の力点があるわけではない。

換言すれば、たとえばある不幸な出来事があったとして、前世がこうなったから、それが原因で現世ではこうなっているなどという説明に関心を持つことは、百害あるのみ。そういう興味の持ち方はやめなさいと言っているのである。

そういう興味の持ち方を霊がかり的と呼び、お勧めしていない。

そしてあらゆる人間的営為は、最後には精神的なものに立ち戻る。その根源を太沖という。太沖とは、精神の側の最も深遠なるセントラル・ポイントということになるだろう。

【チャクラと七つの身体-378】
◎ニルヴァーナ-6
3.道教・儒教-1 ◎太沖
(ザ・ジャンプ・アウト432)


古の真人とは

$
0
0
◎嗜欲深き者は、その天機は浅い

荘子は、OSHOバグワンの前世の一つと言われる。彼が自称するチベット僧だけがOSHOバグワンの前世ではあるまい。

『古の真人は、寝ても夢みず、覚めても憂いなし。
その食するものは美食ではないが、その息はとても深く、真人の息は踵をもってする。
衆人の息はのどをもってする。

屈服する者は、その言はものを吐き出すかのようであり、こだわりが強く強欲な者(嗜欲深き者)はその天機は浅い。』
(荘子 大宗師篇)

『寝ても夢みず、覚めても憂いなし。』とは、古代インドのウパニシャッドの頃から言われている境地であり、現代アメリカの覚者ケン・ウィルバーもこれを意識しているところである。

『真人の息は踵をもってする。』これは、クンダリーニ・ヨーガの息の回し方で、踵まで回すのがあるのだろう。ダンテス・ダイジのニルヴァーナのプロセスとテクニックでは、モクシャ(解脱)までは、ムラダーラ・チャクラから頭頂までを用いるのだが、モクシャからの帰還後は、踵を過ぎ、足裏チャクラまで、エネルギーのシャワーが到達する図示がある。

『嗜欲深き者は、その天機は浅い。』とは、真剣な求道者は必ずすべてを捨て去るものであるから、嗜欲深き者は、財産、名声、家族、趣味、この世での思い出、友人など捨てられるものではないから、真摯に冥想道に向かうことは少ないことを言う。
こだわりをかかえたままでは、先に進めないのである。

【チャクラと七つの身体-379】
◎ニルヴァーナ-7
3.道教・儒教-2 ◎古の真人とは
(ザ・ジャンプ・アウト433)

玄のまた玄は衆妙の門なり

$
0
0
◎老子 第1章 道可道

『本当の道は不変固定の道ではない。本当の名は、道の現れであり、不変固定ではなく、刻々と変じているものである。

無は天地剖判以前のものを無と言い、有は物質、時間、空間の現象界である。ゆえに無はその造化の妙を見せるし、有はその現象界の終わりを現わそうとする。

無と有は一見して違ったもののように見えるが、実は同じであり、その働きにより呼び名が異なっているだけである。この働きは同じく玄という。この玄なる無有の働きは、すべての働きの出て来る門である。』

【訓読
道の道たるべきは、常(かわ)らざるの道に非ず、名の名たるべきは、常(かわ)らざるの名に非ず、
無は天地の始めに名付け、有は万物の母に名付く。ゆえに常に無は以てその妙を見んと欲し、常に有はその徼を観んと欲す。
この両者同じ、出でて而かして名を異にす、同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄は衆妙の門なり。】

モクシャ(解脱)を体験した者の言なり。無も有も高みから眺める立場はニルヴァーナ以外にはない。ただし、無はニルヴァーナの側であり、有なる万物の母は、アートマン。その上で、無も有も玄妙であり、そのはたらきという名だけが違っているというのは、生の世界も死の世界も、そのからくりを見切って初めて言えることである。

【チャクラと七つの身体-380】
◎ニルヴァーナ-8
3.道教・儒教-3 ◎玄のまた玄は衆妙の門なり
(ザ・ジャンプ・アウト434)

孔子の見ていた悟り

$
0
0
◎雷風恒

孔子の見ている悟りは、易の64卦の中の恒でシンボライズされる。

恒は、亨(とお)る。咎(とがめ)なし貞(ただ)しきに利(よ)ろし。往(ゆ)くところあるに利(よ)ろし。
※恒は、永遠不壊だから亨る。悪事を犯さないので、善事ばかり行う。

彖(たん)に曰く、恒は久なり、剛上って柔下る。雷風(らいふう)相い与(くみ)し、巽(したが)いて動き、剛柔みな応ずるは恒なり。恒は亨る、咎なし、貞しきに利ろしとは、その道に久しければなり。
※剛なるクンダリーニが上がって、神の精妙が下って、それぞれが相応ずる。禅では卒啄同機ともいう。その道とは、タオであり、永遠の道。

天地の道は、恒久にして已(や)まざるなり。往くところあるに利(よ)ろしとは、終われば始めあるなり。
※悟ったら(悟らなくても)、現実の、食べるために働くなどということも起こる。終われば始まる。

日月は天を得て能(よ)く久しく照らし、四時は変化して能(よ)く久しく成し、聖人はその道に久しくして天下化成す。その恒とするところを観て天地万物の情見るべし。
※一旦悟ったら、そこを基軸として、行動を展開し、正しいものの見方をする。

象に曰く、雷風は恒なり。君子もって立ちて方を易(か)えず
※一旦悟ったら、諸悪莫作、衆善奉行という行動方法は変えない。


初六、恒を浚(ふか)くす。貞(ただ)しけれども凶なり。利(よ)ろしきところなし。
象に曰く、恒を浚(ふか)くするの凶なるは、始めに求むること深ければなり。
※精神世界も物質世界も両方成功できると思い込んでいたのだろうか。これが、恒を深くするということか。

九二、悔亡ぶ。
象に曰く、九二の悔亡ぶるは、能(よ)く中に久しければなり。
※悔いは自我があることで起こり、究極=永遠(ここでは「中」)を久しく味わえば、悔いはなくなる。

九三、その徳を恒にせず。あるいはこれが羞(はじ)を承(う)く。貞(ただ)しけれども吝(やぶさか)なり。
象に曰く、その徳を恒(つね)にせざれば、容(い)れらるるところなきなり。
※究極を一瞥した程度では、戻る場合があり、これを恥を受けるというのだろうか。正しいけれども今ひとつ。

九四、田(かり)して禽(えもの)なし。
象に曰く、久(ひさ)しきもその位(くらい)にあらず、いずくんぞ禽(えもの)を得んや。
※狩に行くのだから、ポイント・オブ・ノーリターンでは逆転・後退があることを云うのだろうか。獲物などあるはずもない。まだその徳は馴染んでいない。起こることは起こったが、何が起こったかわからないというレベルか。

六五、その徳を恒にして貞(ただ)し。婦人は吉なれど、夫子は凶なり。
象に曰く、婦人は貞しければ吉とは、一に従いて終わればなり。夫子は義を制す、婦に従えば凶なるなり。
※女性は一人の魂の伴侶に従って女性的自我が充足することが一つの悟りみたいなものなので、女性ならここでよし(吉)とするが、男性は、ダメ。男性はあくまでニルヴァーナという体験ではない体験を求められる。それを敢えて凶とするところに、人間の立場が見え隠れする。

上六、恒を振う。凶なり。
象に曰く、恒を振(ふる)って上に在り、大いに功なきなり。
※その悟りという神秘体験ではない体験も、それにしがみつけば、いつかその役得も失われる。悟り体験も賞味期限があるのだろう。

【チャクラと七つの身体-381】
◎ニルヴァーナ-9
3.道教・儒教-4 ◎孔子の見ていた悟り
(ザ・ジャンプ・アウト435)

未発の中

$
0
0
◎君子は中庸す

喜怒哀楽が未だ起こらない前のもの、これが中である。これが未発の中。仏教でいう初禅から四禅までは、気持ちよかったり、楽しかったりするので、喜怒哀楽がまだ残る状態。従って未発の中とは、四禅までの色界のレベルを超えた無色界の冥想状態を想定していることになる。

仏教では、無色界の冥想にも空無辺処定などの数段階をもって分類しているが、四書の中庸では、そうした分類はない。分類をつけない理由はいくつか考えられるが、ここは、儒教は只管打坐型冥想のようなので、身心脱落に段階は問題にならないことから、段階を表明しなかったかと思う。

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という」という文に続いて、孔子が「君子は中庸す」とやっているので、中庸とは、極端を避け、真ん中のあたりさわりのない道を選ぶこと、などという下世話な解釈は当たっていないことがわかる。

つまり中庸とは、中(タオ・宇宙意識・ニルヴァーナ)と呼ばれる体験とは呼べない体験を軸にした人間のあり方である。最低でも見性はした人間
でなければ中庸はわからないだろうということ。

【チャクラと七つの身体-382】
◎ニルヴァーナ-10
3.道教・儒教-5 ◎未発の中
(ザ・ジャンプ・アウト436)

ダライラマの菩提心のポジション

$
0
0
◎悟りを得ようという願い

日本人にはあまりなじみのない菩提心という言葉。ダライラマにとっては基本タームであるが、この言葉によって、チベット密教が密教国家を維持してきたロジックを見ることができる。この論理はきちんと理解する人にとっては、とても有用なものとなる。

ダライ・ラマによれば、
1.菩提心とは、悟りを得ようという願いのことである。
2.菩提心は、直接悟りをめざす智慧の局面と、他の生きとし生けるものを救済しようとする慈悲の局面の二つがある。
(コメント:アジナー・チャクラ(智慧)とアナハタ・チャクラ(愛)ですね。)

3.悟りを得るにはまず涅槃を得なければならない。
4.そのためには空性を悟らなければならない。

5.空性を得るためには、空性への理解を培うこと。
6.空性への理解により、涅槃(ニルヴァーナ)を正しく判断できるようになる。
これにより、仏教への信頼と釈迦と僧への尊敬の念が養われる。

7.菩提心の有無が大乗仏教の修行者と小乗仏教の修行者を分ける。大乗、小乗とも仏教への帰依が条件の一つだが、加えて菩提心があることが大乗仏教の修行者の条件である。
帰依だけでは小乗へということである。 
(ダライラマ日々の冥想/ダライ・ラマ/講談社P186-187から抜粋)

チベット密教関係では、菩提心、空性、ニルヴァーナの説明が機銃掃射のように行われるが、この基本線の理解がないと、無駄にはまってわからなくなることもあるのだと思う。この基本線を承知してのポアであり、ナーローの六法ではある。

現代のように切羽詰った時代ではいきなりニルヴァーナが求められるとは言っても、個々人のたどっていく成長過程は、このダライラマのステップをたどるであろうことは間違いないと思う。現代はそこにスピードが要求されているだけなのだと思う。


【チャクラと七つの身体-383】
◎ニルヴァーナ-11
3.仏教-1 ◎ダライラマの菩提心のポジション
(ザ・ジャンプ・アウト437)

芭蕉 幻住庵記

$
0
0
◎やがて死ぬ けしきも見えず 蝉の声

芭蕉の幻住庵は京阪石坂線終点の石山寺から西へ1.5キロ。大津市の岩間の北の山にあったという。

芭蕉の幻住庵記を現代語訳してみると
『私は、ただひたすらに閑寂を好むというのではない。ただ病身のため人にうみ、世を逃れた人に似ている。

なんということか、仏法を修行するでもなく、世の職務をつとめるでもなく、仁にもつかず、義にもよらず、若い時から、ただむやみと好きなことがあって、それが、ひとまず生活の手段とさえなったので、わが身の無能無才により、とうとうこの一筋につながれたもの。

およそ西行・宗祇の風雅の道におけるもの、雪舟の絵におけるもの、利休の茶におけるものについて、我と彼らとの賢愚は異なるが、これらに一貫しているものは一つであろうと、いろいろと工夫・苦労しているうちに、いつもまにか人生の初秋も半ばを過ぎた。

一生の終りもこれに同じく、夢の如くにして、又々幻住なるべし

先ずたのむ 椎の木もあり 夏木立

頓(やがて)死ぬ けしきも見えず 蝉の声

幻(ドリーム)とも自覚しないうちに人生半ばを過ぎ、一生の終りに至って、幻と感ずる。
ドリームとリアリティ(ニルヴァーナ)。
西行・宗祇の風雅の道、雪舟の絵、利休の茶に一貫するものは、リアリティ(ニルヴァーナ)。


【チャクラと七つの身体-384】
◎ニルヴァーナ-12
3.仏教-2 ◎芭蕉 幻住庵記
(ザ・ジャンプ・アウト438)

只管打坐のポジショニング

$
0
0
◎ニルヴァーナではもうからない

最近話題の立松和平の「道元禅師」を読んでいる。正法眼蔵も中国の禅者の事蹟もしっかり調べてあるし、相当取材に時間をかけた労作であるように思う。

その中で、道元が京都での布教を事実上あきらめ、越前に主たる活動の地を遷す経緯が書いてある部分がある。

道元が後嵯峨天皇に奏聞した護国正法義の判定を比叡山の佐法師静明が行なったが、その判定は、要するに只管打坐の見解は縁覚の見解であって、仏教の正統的なものではなく、自分で見解を述べているだけの正統性が疑わしいものであるというものであった。

この結果、興聖寺は破却、道元は洛中から追放という措置となった。

天台の修行体系から見れば、道元のそれは、何種類かある三昧(冥想)手法のうちの一つだけを殊更に取り上げて修行するものだろうから、こういった判定が出るのももっともなことだとは思う。

本来問題とすべきは、手法ではなく、ニルヴァーナに到達できるものかどうかなので、道元の見解はそこからずれているとは思わないから、道元にとっても不本意なことではあったろう。

しかしニュータイプのものであって、本物の息吹のあるものは、本物であるがゆえに大体徹底的にやられてしまうもの。

クリシュナムルティは方法・メソッドを説かなかったので大ムーブメントになることはなかった。和尚バグワンは(只管打坐は説かなかったが)、方法を説いたので米国当局に弾圧された。

21世紀の宗教は個人的な宗教(アクアリアン)のはずだが、それに対する風圧は、無理解という形で強い。もうからないものは相手にしないという風潮が支配的なのだ。
【チャクラと七つの身体-385】
◎ニルヴァーナ-13
3.仏教-3 ◎只管打坐のポジショニング
(ザ・ジャンプ・アウト439)


大地震の八つの発生条件

$
0
0
◎ブッダが完全なニルヴァーナに入る

釈迦による大地震の発生原因の説明。フツーの人による大地震の発生原因、菩薩による大地震発生原因と来て、最後の4段目は覚醒を遂げた者=ブッダによる大地震発生要件。

『さらにまた、アーナンダよ。修行を完成した人(如来、ブッダ)が無上の正しい完全なさとりをさとるとき、この大地は動揺し、震動し、激しく震動する。
これが、大きな地震が起るための第五の原因、第五の条件なのである。

さらにまた、アーナンダよ。修行を完成した人(如来、ブッダ)が無上の法輪を回転するとき(=説法をなすとき)、この大地は動揺し、震動し、激しく振動する。これが、大きな地震が起るための第六の原因、第六の条件なのである。

さらにまた、アーナンダよ。修行を完成した人(如来、ブッダ)が念じ、よく気をつけていて、寿命の素因を捨て去ったとき、この大地は動揺し、震動し、激しく震動する。これが大きな地震が起るための第七の原因、第七の条件なのである。

さらにまたアーナンダよ。修行を完成した人(如来、ブッダ)が、煩悩の残余のないニルヴァーナの境地において完全なニルヴァーナに入るとき、この大地は動揺し、震動し、激しく震動する。これが、大きな地震が起るための第八の原因、第八の条件なのである。

アーナンダよ。これらの八つが、大きな地震が起るための八つの原因、八つの条件なのである。』
(ブッダ最後の旅 大パリニッパーナ経/中村元訳/岩波書店P74から引用)

この章の冒頭に発生した大地震は、「釈迦が寿命の素因を捨て去った」ことで起こった。その時人々は恐怖し、身の毛をよだたせたとある。つまり上掲大地震の原因の第七で起こった。

全体として見ると、大地震は大地の諸要素のバランスが崩れることで起こり、悟っていない力のあるクンダリーニ・ヨーギの呪力でも起こり、また菩薩の受胎時、出生時にも起こり、如来が悟った時、如来がその悟りを弘める時(転法輪)、如来が寿命の素因を捨てた時、そして完全なニルヴァーナに入るときに起こるとする。

さすれば、阪神大震災はどの原因で起き、東日本大震災はどの原因で起こったのだろうか。

ここは、冥想を中心とした文明史観しかこの世にはあり得ないのだから、生きとし生けるものすべてが悟りを得ることが文明の完成である以上は、大地震という一見ネガティブなイベントでさえも、悟りの進展ということで殊更に説明していると見たい。

そして、文明の完成、全員が悟りきる時代は、この近代西欧文明の最後の段階であるように思う。

【チャクラと七つの身体-386】
◎ニルヴァーナ-14
3.仏教-4 ◎大地震の八つの発生条件
(ザ・ジャンプ・アウト440)

覚鑁(かくばん)の阿字観

$
0
0
◎ニルヴァーナへの展開

覚鑁(かくばん)の阿字観では、

「その行の時間は二時間ないしは一時間。この観を始めたらならば、行住坐臥、浄不浄にかかわらず、「アー」、「アー」と唱えなければならない。

このようにして時を惜しんで努力を積めば自ずから成就できる。疑ってはならない。
一心に乱れることなく行ずることを、本より成就するメソッドという。

というのは最初に「アー」と鳴いて生まれ出て以来、悦ばしいことがあれば、そのまま「アー」と笑い、哀しい事があれば、そのままに「アー」と嘆く。惜しい物をも「アー」と惜しみ、欲しい物をも「アーアー」と心を留める。とんでもない悪について「アー」と言わないことはない。

善悪の諸法、器界国土(山河大地などの我等の環境)、山河大地、すべて「アー」から生まれ出たものだからである。

また風が樹林を吹いて、波(浪)が真砂を打つ。鳥がカウカウと鳴き、雀がしゅうしゅうと鳴くように、何でも最初にマントラを唱えないものがあろうか。

このように不思議のマントラ(真言)だから、本(もと)自(よ)り成就していたことだったと、深く確信して(信心を致して)観ずることを本不生と申す」

それでもって初心者への注意があり、『初心者は、しつこくその理由を尋ねてはならない。ただただ一心に「アー」「アー」と唱えなさい。これは自然の道理のサマディ(三摩地)なのだから。』。


要するに何もかもが「アー」である。人間は、「アー」に喜び、「アー」に哀しみ、「アー」に死ぬという世界に生きている。これを疑うことなく一心に唱えて「アー」そのものになれば、本不生という永遠不壊になるということ。

最後の初心者への注意は、日蓮が禅天魔、念仏無間、真言亡国、律国賊などとして他宗派へ浮気することを戒めたのと同じような趣旨だろうと思う。

すべてが『アー(阿)』のマントラ・シッディとは、マントラ・シッディを超えることを覚鑁(かくばん)は確言している。マントラ・シッディのニルヴァーナへの展開の可能性を、ここまで明瞭に述べた人はあまりいないのではないだろうか。

【チャクラと七つの身体-387】
◎ニルヴァーナ-15
3.仏教-5 ◎覚鑁(かくばん)の阿字観
(ザ・ジャンプ・アウト441)

阿弥陀仏はニルヴァーナの展開だった

$
0
0
◎覚鑁(かくばん)の見方

覚鑁(かくばん)の著書『一期大要秘密集』には「密教によれば十方の極楽は、みんなひとつの仏の浄土であって、あらゆる如来は皆この一仏の身であると。

・・・・・阿弥陀仏は大日如来の智の働きであり(智用)、大日如来は阿弥陀仏の理のボディであって、かの極楽は十方に展開している。・・・・

このように観ずる時、娑婆を起たずして、忽(たちまち)に極楽に生ず。
我が身は阿弥陀仏に入った。阿弥陀仏を替えないまま、すなわち大日如来となった。」

つまり観想法の中で、自分が阿弥陀如来となり、それか大日如来なるニルヴァーナに変じたことを実証したと語る。
「娑婆を起たずして、忽(たちまち)に極楽に生ず。」とは、自分という個別性が、娑婆という肉体世界にありながら、微細身の極楽にもあるということを言っているということか。あるいはまた、クンダリーニ覚醒プロセスを示唆しているのか。

同じく覚鑁(かくばん)の著書『五輪九字明秘密釈』には、
「一切如来はことごとく、これ大日如来である。毘盧舎那仏と阿弥陀仏は、同じボディのものを別の名で呼んでいるだけである。また極楽と密厳浄土は名前は違うが同じ場所のことである。・・・・

五輪門を開いて自性法身を顕し、九字門を立てて受用報身を標す。既にわかった、毘盧舎那仏と阿弥陀仏の二仏は平等であると。」

ここは、大日如来なるニルヴァーナが展開して、毘盧舎那仏と阿弥陀仏になっていることを確認したというもの。

おそらくは、大日如来は無のニルヴァーナであって、毘盧舎那仏と阿弥陀仏は有のアートマンの側なのだろう。この見方に至るためには、『五輪門(5チャクラ)を開いて自性法身を顕し、九字門を立てて受用報身を標す』という冥想を行うのだろうが、その子細はわからない。


【チャクラと七つの身体-388】
◎ニルヴァーナ-16
3.仏教-6 ◎阿弥陀仏はニルヴァーナの展開だった
(ザ・ジャンプ・アウト442)

達磨(ダルマ)の説明の仕方

$
0
0
◎ちょっと変わった思いつきに非ず

達磨(ダルマ)は、世間には、2つの真理があるとする。

まだ真理=ニルヴァーナを悟っていない人にとっては、「たとえば悟っている人と悟っていない人がいる、または自我があって別に神があるが、なぜか神は自我もすべて含んでしまうとか、人には生があり、死がある」などということが現実そのもの、真理そのものである。

一方真理を悟った人にとっては、ニルヴァーナだとかニルヴァーナでないとかいう区別は超えてしまって、何もかもない、一物もないというのが現実である世界に生きている。その世界では、自我も神も、貧乏人も金持ちも、すべて実体のない幻であるとしか表現することはできない。これが彼らの真理。

だから肉体を持ったままで、ニルヴァーナの世界に入ることは、悟りでしょうかという弟子の質問に対して、ダルマは、そんなものは、夢の悟りであると一蹴してしまう。

そこで悟っていない人が、悟った人と議論をすると、自分の譲れない現実認識=真理の中で議論をするものだから、いつまでたっても悟った人の現実認識に理解を示すことはなく、永久に議論に決着が訪れることはない。

悟っていない人にとっては、悟った人の「何もない現実」というのは,一つの考え方や哲学の一種だろうと決めてかかるところがあるから、悟った人の現実認識を理解することはできない。何もないというのは、悟った人の生活実感であって、ちょっと変わった思いつき程度のものではないのだ。

このところがわからないと、じゃぁちょっと坐禅冥想とかリラックスのポーズでもとってみようということにはなるまい。

【チャクラと七つの身体-389】
◎ニルヴァーナ-17
3.仏教-7 ◎達磨(ダルマ)の説明の仕方
(ザ・ジャンプ・アウト443)

天照大御神のジェンダーの変容

$
0
0
◎もともとは、神霊界の完成者

最初の頃の斎王は、未婚の皇女から選ばれ天照大御神に仕えるのだが、斎王を中核とする宮司組織斎宮寮は天皇の後宮に酷似していることから、斎王は天照大御神の后であると想定されていたことがうかがえる。よって、斎王制度が始まった頃、天照大御神は男神であり、古事記でも天照大御神は男神と描かれていることと照応する。
(岩波 天皇・皇室辞典による)

これが日本書紀では、素戔嗚神の姉が天照大御神ということになっており、天照大御神は女性とされた。しかしながら、正統神典はあくまで古事記なのだから、本来天照大御神は男神の扱いが正統なのだろう。

古神道家出口王仁三郎の見方では、天御之中主神であるニルヴァーナは、その働きによって名前を変えていくのだが、その一つが天照大御神であり、天照大御神の役どころは、理想世界である神霊界を完成したという役割である。

そうした世界では、ジェンダーはそもそも意識されていないはずなのだが、天照大御神の役割が日本を知行する最高神というように世俗に落ちてくれば、祭祀の都合でジェンダーをどちらかに寄せたりする必要が出てきたのだろうと思う。つまりは崇拝する側の人の都合で、ジェンダーは変えられて行ったのだろうと思う。

【チャクラと七つの身体-390】
◎ニルヴァーナ-18
4.古神道-1 ◎天照大御神のジェンダーの変容
(ザ・ジャンプ・アウト444)

天の数歌

$
0
0
◎四段構えの世界

古神道の神の構造は四段構えで、幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕。

幽の幽は、天御中主神であり、ニルヴァーナであり、無のサイド。かたや幽の顕、顕の幽、顕の顕は有のサイド。

幽の顕とは、イザナギ、イザナミの二神や天照大御神、素盞鳴神など、天上の霊界を主宰する神。

顕の幽とは、国祖国常立尊、豊雲野尊など、一度現世にその肉体を表現された神であって、地上の幽界を主宰する神。

顕の顕とは、人間のこと。


さて、ここに天の数歌というのがあって、
「一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千 万」(読み:ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり もも ち よろづ )

出口王仁三郎は、この四段構えの世界構造を天の数歌に当てている。

幽の幽(一 二 三 ひふみ)

幽の顕(四 五 六 よいむ)

顕の幽(七 八 九 ななやこ)

顕の顕(九 十 百 千 万 こともちよろず)

つまり一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千 万と唱えれば、あの世もこの世もまとめて修祓できるということであって、聖音オームと同様の効果であることがわかる。
(参考:雑誌神霊界/出口王仁三郎)

なぜか九がかぶっているが、それも考えてみるべきだろう。

【チャクラと七つの身体-391】
◎ニルヴァーナ-19
4.古神道-2 ◎天の数歌
(ザ・ジャンプ・アウト445)

一厘の仕組

$
0
0
◎天津祝詞

古神道には、窮極も悟りもないだろうと思っていたが、それは身近なものにあった。天津祝詞にあったのである。一厘の仕組は、結局のところニルヴァーナと悟りである。

○出口王仁三郎の天津祝詞
【高天原に神留坐す、神魯岐神魯美の命以て、皇御祖神伊邪那岐命、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓ひ給ふ時に生坐せる祓戸の大神達、諸々の枉事罪穢を払ひ賜へ清め賜へと申す事の由を、天津神国津神八百万の神達共に、天の斑駒の耳振立て聞食せと恐み恐みも申す。】

字義どおり読めば、伊邪那岐命が九州の阿波岐原で禊ぎをなさったときにできた祓戸の神たちにまが事や罪穢れを祓い清めて下さいと奏上したという、個人の都合のいいようにはからって下さいという、とりたてて特筆すべき内容のないものに見える。

これが、出口王仁三郎の解釈では、全く異なるものに仕上がる。

「全宇宙(高天原)に陰陽二元がたっぷりと充実している。

陰陽二系を司る神々の言霊(神魯岐神魯美の命)によって、連綿として継承さるべき万世一系の大主宰者の神伊邪那岐命が、窮極(筑紫)の光明遍照(日向)の五大父音の言霊(橘の小戸)によってできた大宇宙(阿波岐原)にあって、身体の大修祓をなさった時に発生した祓戸四柱神よ(瀬織津比売、速秋津比売、気吹戸主、速佐須良比売)、

諸々のまが事や罪穢(つみけがれ)を払ひ賜へ清め賜へと申す事の由を、天津神国津神八百万の神達共に、霊力体すべて(天の斑駒の)、活動を開始したまえ(耳振立て聞食せ)、と恐み恐みも申す。」

まず窮極・ニルヴァーナとは、「筑紫の日向」。「筑紫の日向」は、福岡県、宮崎県のことではなかった。ましてや昨日今日しでかしたチョンボを祓い清めてもらうことを願うというご都合主義の願文でもなかった。全体として個人の願望成就サポートではなく、宇宙全体の矯正を諸神ともに祈るというもの。

下の大意でわかるように、大体がアオウエイの五大父音が鳴り響く阿波岐原にいるということ自体、相当に修業を積まないとなかなかそこまではいかないレベル。そこでもって、言霊を駆使して、天地全体の禊祓を行いましょうというものであるから、これぞ古神道の窮極であって、その他のものではない。

また、ほとんど説明がないが、注目ポイントは、(大)伊邪那岐命に対して、小伊邪那岐命。小伊邪那岐命は、我々人間を差しているのであるが、伊邪那岐命に大小あるを示しているところは、神人和合を暗示すると見える。
ただし、帰神自体が、神に対して自分をなかなか捨てにくい技であるようなので、全体として神と自分は別であるという考え方を余り逸脱しない筆致であるところには注意が必要だと思う。

『大意
 宇宙天地万有一切の大修祓は、霊系の御祖神の御分担に属する。現在『地の世界』に於て執行されつつある国祖の神の大掃除大洗濯も詰まり宇宙全体としては伊邪那岐命の御仕事である。幾千万年来山積した罪穢があるので、今度『地の世界』では非常な荒療治が必要であるが、これが済んだ暁には刻々小掃除小洗濯を行へば宜しいので、大体に於ては嬉し嬉しの善一ツの世の中に成るのである。即ち伊邪那岐命の御禊祓は何時の世如何なる場合にも必要あるものである。これがなければ後の大立直し、大建設は到底出来ない訳である。

 さて此修祓は何によりて執行さるるかと云ふに、外でもない宇宙根本の大原動力なる霊体二系の言霊である。天地の間(即ち阿波岐原)は至善至美、光明遍照、根本の五大言霊(アイウエオ)が鳴り亘つて居るが、いざ罪穢が発生したと成ると、言霊でそれを訂正除去して行かねばならぬ。人は宇宙経綸の重大任務を帯びたるものであるから、先頭第一に身霊を磨き、そして正しき言霊を駆使すれば、天地も之に呼応し、宇宙の大修祓も決行される。

其際にありて吾々五尺の肉体は小伊邪那岐命の御活用となるのである。雨を呼べば土砂降りの大雨が降り、地震を呼べば振天動地の大地震が揺り始まる。これが即ち『御禊祓給ふ時に生坐せる祓戸の大神達』である。

かくして一切の枉事罪穢は払ひ清めらるる事になるが、かかる際に活動すべき責務を帯びたるは、八百万の天津神、国津神達でこれ以上の晴れの仕事はない。何卒確り御活動を願ひますといふのが、大要の意義である。何人も日夕之を奏上して先づ一身一家の修祓を完全にし、そして一大事の場合には、天下を祓清むるの覚悟がなくてはならぬのであります。』
(霊界物語30巻海洋万里巳 附記天津祝詞解から引用)

【チャクラと七つの身体-392】
◎ニルヴァーナ-20
4.古神道-3 ◎一厘の仕組
(ザ・ジャンプ・アウト446)

奥深い心

$
0
0
◎それは人間の心ではない

ダンテス・ダイジの詩から

「奥深い心」

すでに人間はいない
あらゆるものを構え
その中でとりとめもない
人間の喜びと人間の悲しみとを持つ
そのものはすでにいない

人間の喜びと悲しみとから生れる
あのしみじみとした心の果てには
すでに人間はいない

人間にとってあるというすべてのものは
ことごとく消え果て
ただその奥深い心だけが
何の束縛もなく現前している

それは人間の心ではない
人間の喜びも悲しみも
その心のどこにもないのだから
人の子の悲惨な死も
甘美な恋慕も
その心には見えない

また その心は
石ころと人間とに区別がつかない
めくらで不人情な心だ

だが その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを
しみじみと眺めあたたかく包む
何ものかが
限りなくあふれ出す

(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)

一つの冥想手法として、こういう状態は、マントラ禅(南無阿弥陀仏などのマントラの念唱)によりマントラそのものに成りきるマントラ・シッディにおけるメンタル体におけるアナハタ・チャクラが開く体験だなどと説明することもできる。

クンダリーニ・ヨーガでいえば、個別人間の終わりであるコーザル体を抜けないとこの実感はないだろう。

バクティ型の、自分自身を神の御前にすべてを投げ出すタイプのものでも、これは起こるだろう。

しかし本当の他人のへの思いやり、親切、無私の愛などと言われる、この社会に足りないもののほとんどが、この非人間的な心の絶対を体験することなしには、わかるものではない。

ありがとうを何回も言う運動。漫然と繰り返すだけでは何も起こらない。そのままでは、個人的無意識の感情の部分をやや刺激する程度に終わる。

でも「ありがとう」というマントラに自分自身をすべて投げ出して、「ありがとう」になり切ればきっとそれは開けるだろう。でも使うマントラに制限はなく、「ありがとう」ではなく「エグザイル」でも「マック」でも「スタバ」でも、いつかは行けるところが摩訶不思議。「ありがとう」に成りきる、「エグザイル」に成りきる、「マック」に成りきる、「スタバ」に成りきる、どれも人間の気持という感情のことを言っているのではない。「奥深い心」のことである。

【チャクラと七つの身体-393】
◎ニルヴァーナ-21
5.ニューエイジ-1 ◎奥深い心
(ザ・ジャンプ・アウト447)

コミューン-一定数の覚者

$
0
0
◎ニルヴァーナの臨在に人は集まる

これは、OSHOバグワンが、コミューンを舞台にした伝道を始めた頃の世界の行く末展望。覚者らしく、金がどう、生活レベルがどうなどということは言わない。ただ、彼がいるだけで世界中から人を呼び寄せ、コミューンが巨大化するという呪術みたいな語りでもある。

『ブッタは創造するのではなく触発する
「彼は触発する」と言うことさえ適確ではない
彼の臨在のもとで、物事が起こる
彼の臨在のもとで、物事が触発される、さまざまなプロセスが始まる
まさに彼の臨在がひとつの炎、ひとつの火花だ
そして物事が動き出し、それが次から次へとつながってひとつの偉大な連鎖ができる

そうやって私たちはこれまで進んできた
私は、何もしないでただ自分の部屋に坐っているだけだ
そうすると、世界中から探求者たちが流れこみはじめた
私は一通の手紙すら書かない・・・・・ただの臨在だ
一人が来て、もう一人が来て、やがて連鎖ができる

いまや、ブッダフィールドが必要とされるときがきた
母体(マトリックス)が必要とされるときがきた

なぜなら、あなたは知らないが、何千人以上もの人たちが道の途上にいるからだ
彼らはすでに動きはじめた
彼らはすでにここへ来ることを考えている

そして人々の数が多ければ多いほど、ますます大きなブッダフィールドがそこにできる
そしてますますそれは強力なものになる
私たちは、かつてこの世に創造されたなかで
最大、最強のブッダフィールドのひとつを創造することができる可能性がある
なぜなら、いまだかつてこのような探求はなかったからだ
いまだかつて、人間がこのような危機の状態にあることはなかったからだ

私たちは、人類に起ころうとしている新しい何かの瀬戸際にいる
人類は死んで消えるか、あるいは跳躍、飛躍して、新しい存在が形成されるか――――

私たちは、何年か前に猿が樹から降りて
人類が始まり、新しい存在が誕生したのとまさに同じ時点にいる
再びその瞬間が迫っている
それは非常に危険な瞬間だ
なぜなら、あらゆる可能性があるからだ・・・・・


その猿は地上で生き延びられなかったかもしれないということはありえた
その猿は地上で死んでいたかもしれない
しかし少数の猿たちは危険を冒した
彼らはほかの猿たちからばかだと思われたにちがいない
ん?ほかの猿たちはずっと樹の上で暮らしてきて、まったく幸せだった

彼らは思ったにちがいない
「この連中は頭がおかしくなっている、狂っている
第一、なぜ地上で生きていこうとするのか?
なぜ自分でむだな骨折りをつくり出すのか?
われわれの父親もその父親も、そしてその父親もみんな樹の上で暮らしてきたのだ」

再び同じ状況が起ころうとしている
人間は長いあいだ、昔ながらの暮らし方をしてきた
今世紀末までに、重大な量子的飛躍が可能だ
人間は、第三次世界大戦で死滅するか
それとも、人間は飛躍をとげて新しい人間になるか、そのいずれかだ

それが起こる前に大きなブッダフィールドが必要だ
私たちが未来を創り出すことのできるフィールドが』
(ダイヤモンド・スートラ/OSHOバグワン/めるくまーる社p562-565から引用)

この時点では、コミューンが失敗することを彼は予期はしていない。

これから20年、OSHOバグワンは既に古典となった。その教訓の一つは、悟りに至るメソッドの基本は、一つの流派を押し極めていくのが基本だということで、あまりファッション冥想などの脇道にそれたりしてはいけないということだろう。

まずは、めいめいがめいめいのスタイルで坐り、悟りという体験とは言えない体験を目指す。それでも、悟った人がある一定数に達しないと、生活レベルを落とす動きも政治を正す動きも新時代モデルにはならないだろう。この一定数というのをOSHOバグワンはコミューンで達成しようとしたわけだ。

【チャクラと七つの身体-394】
◎ニルヴァーナ-22
5.ニューエイジ-2 ◎コミューン-一定数の覚者
(ザ・ジャンプ・アウト448)

クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-1

$
0
0
◎ダンテス・ダイジのケース-1

ダンテス・ダイジは、生前経典を残しており、そのものズバリで、ニルヴァーナへの王道とされるクンダリーニ・ヨーガも只管打坐も極めたことを自ら明かしている。なお両方極めた人物には他に釈迦がいる。

(1)只管打坐
 その著書ニルヴァーナのプロセスとテクニックでは、只管打坐の体験記が二種盛られており、一つは絶対愛の目覚めであり、もう一つはニルヴァーナの目覚めである。

絶対愛とは、大慈大悲でありmercyのことであり、神の七つの属性の一つという位置づけであろうことがわかるので、ニルヴァーナの前段に置かれているようだ。

そして、ニルヴァーナの目覚めの方は「身心脱落(ニルヴァーナ)の目覚め」と章が立てられており、その違いを明示している。要するに「愛」だけ悟っても、それは全体ではないことを強調している。

また、ニルヴァーナの目覚めで覚知した境地を「空」であると見て、空とは時空の超越状態であって、坐禅をしている自分もなく、絶対的静寂というか、絶対的充実というか、その空があるという表現を用いている。

そして只管打坐とは宇宙と一体になることでもないという。

『只管打坐とは、即座に、自己が肉体でも、意識でも、魂でもなく、時間にも、空間にも、物質にも、現象にも束縛されず、まして宇宙と一体になることでもない。

もちろん初期の頃は、宇宙と一体という経験が起こるであろうが、只管打坐とは、それのみにとどまらず、全く何の限定も受けない、空であるところの、唯一存在するところであるところの、あるいは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道であり、かつて道元はそれを「身心脱落」と言ったのである。』
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ/森北出版p112-113から引用)

これだけ具体的で親切な只管打坐での覚醒のプロセスを書いてくれているものは、この他には、バグワン(OSHO)のそれくらいではないかと思う。

【チャクラと七つの身体-395】
◎ニルヴァーナ-23
5.ニューエイジ-3 ◎クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-1
(ザ・ジャンプ・アウト449)

クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-2

$
0
0
◎ダンテス・ダイジのケース-2
◎ディメンション・トラベラー

(2)クンダリーニ・ヨーガ

クンダリーニ覚醒について、冥想法と実際を解き明かしたのは空前絶後と言ってよいだろう。特徴的なのは、チベット密教や日本密教にみられる諸尊格、諸神霊についての観想がほとんど出てこないこと。つまり霊がかり、神がかりのバイアスをほとんど排したクンダリーニ・ヨーガとして画期的なものであると思われる。

そして技法はマハー・ムドラー、ヨニ・ムドラー、クンダリーニ冥想と進行し、七つのボディと七つのクャクラでクンダリーニ上昇の過程を説明していくのだが、七つのボディについても七つのチャクラについても定説がない現代社会では、そのメカニズムを誤解せずに、知的に理解することすら、頭でイメージすることですら簡単なことではないように思う。

ヘルメス文書もかなりきわどいところまで書いている、慧命経も核心に迫ったところまで書いているとは言っても、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」でもって、ここまでさらけ出さなければわからないほど、現代人類の闇は深まったことを感じざるを得ない。

そしてクライマックスは、中心太陽への突入と帰還であるが、それが安手の脚本による大型シネマと違うところはあらゆる宇宙、あらゆる次元を超えるというところである。ここにタイム・トラベラーでも、スペース・トラベラーでもない、ディメンション・トラベラーの面目躍如たるものがある。

しかしそれは、宇宙のロケットの座席で一人のパイロットが体験する数日間のツアーというようなものではなく、「すべてはすべてであった」という全く個々の人間の想像を絶したものであることに注意が必要である。旅行会社任せで何とかなるようなしろものではないのである。

全身全霊をもって、その誠実さ、素直さ、敬虔さ、それまでに経てきたあらゆる実感をもって取り組まねば、重い扉のノブにも手もかからないし、最終ステージ近くでは、その自分も棄て去るというとてつもない恐怖のシーンにあわてふためくことにもなる。

最後に残された謎として、冥想十字マップがある。これは、時間的進化を縦軸に空間的進化を横軸に排し、その交点に「愛」が位置するものである。

縦軸については、7チャクラであり、この文明全体のテーマが「愛」なので、このマップが、社会における自己実現たるマニピュラ・チャクラから愛のアナハタ・チャクラに移行するというこの文明のテーマを意味しているので、この構図がこの文明全体のあり方を示唆するのものであることはわかる。

しかし有想定から無相三昧にいたる横軸が、なぜ空間的進化なのか、謎として残っている。

【チャクラと七つの身体-396】
◎ニルヴァーナ-24
5.ニューエイジ-4 ◎クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も-2
(ザ・ジャンプ・アウト450)


「幕末戦慄の絆 加治将一」読後

$
0
0
◎綾部に天子を隠せり

「幕末戦慄の絆 加治将一」は、副題に「和宮と有栖川宮熾仁、そして出口王仁三郎」とあるので、出口王仁三郎ファンとしては、目を通さざるべからざる書。と言っても。出口王仁三郎のことは、少々触っている程度で、半分以上は和宮のことばかり。大本宣伝歌に「綾部に天子を隠せり」などが暗号風によみこまれているのは、初めて知った。大本では、綾部に遷都するという予言もあるが、それは「今ここ」のことであり、「綾部に天子を隠せり」を字義どおり採るわけにはいかない。

北朝の有栖川宮熾仁は、明治新政府に利用されるだけ利用され、挙句は有栖川宮家は一旦断絶。長州力士隊の数少ない生き残りの旭形亀太郎が、明治32年愛知県知多郡武豊町に孝明天皇を祀る玉鉾神社を創建していた。この力士がアサヒビールの総代だった。

なぜこの土地なのかという点は、単に神社建立の土地をあっせんしてもらったのが、たまたまこの土地ということなのかもしれないが、知多半島と言えば、例の中国の日本分割構想の中間ボーダーであることに思い当る、霊的因縁というべきか。

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』では、南朝復興派の吉田松陰の妹が主人公なので、南朝のかかわりが描かれるのかどうか、横井小楠がどうかかわっていくのか(横井小楠が南朝派だっていうのはこの本で知った。)に注目していきたい。


大正天皇への見方が、本書と鬼塚英昭では180度違うのが気になった。

Viewing all 3535 articles
Browse latest View live