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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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猫と個人主義

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◎日本的個人主義の本格的目覚め

欧米ドラマでは、ピンチや別れなどの山場になると必ず「愛している」と云う。日本人なら絶対に言わないこのせりふを、臆面もなく云う西洋人の感覚は謎だった。
欧米ドラマでは、女も一人で生き、子供を作った後でも普通に離婚し、一人で子育てをして、老後は一人で死ぬ覚悟が出来ているというのが、実に通常の風景として登場してくる。単に女が強いということではなく、男は当然だが、西洋では女でも一人で生き一人で死んでいくことが当たり前の精神世界に生きているのだ。そうした厳しい個々人の間の架け橋が「愛している」なのだろう。

さて、この頃テレビドラマでもテレビ・コマーシャルでも画面に猫が短時間登場することが非常に多い。

これは、日本の個人主義は、これまで中途半端だったが、ようやく万人の表層意識に上るようになってきたという証左。日本人は表面はともかく内実は無神論者がほとんどである。明治の個人主義導入より100年を経てようやく西洋流のライフ・スタイルの孕む『孤独』の苦痛と不安と憎しみと怒りを『猫』という神秘と愛らしさの形で皆が感得するところまで発達してきたわけだ。

猫は愛玩動物であって、人間が養わないと生きていけないが、その性は個人主義である。

夏目漱石の「吾輩は猫である」は中学生向けに書き下ろしたわけではないが、日本人の個人主義的ライフスタイルを評価するとなぜか猫にそのシンボルを求めがちという事だろうと思う。

不幸にしてそれは、国民全体の貧困化と、薬物依存、ギャンブル依存、スマホ・ネット・ゲーム依存などのプチ廃人化の浸透を伴って起きて来た。覚醒に進むか廃人に進むか、すべての日本人にとっていよいよ正念場である。


浄土真宗のヘッド・バンキング

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◎坂東曲(ばんどうぶし)

ヘッド・バンキングはヘッド・ハンティングのことではない。ヘヴィ・メタルなどの音楽のリズムに合わせて、上体折り頭を激しく上下に振り、時時左右に振る動作である。
これをやると頭がふらふらし、トランスに入ることがある。

これは、乳児でやると揺さぶられっ子症候群であり脳内出血に至ることもあり、いつも激しいヘッド・バンギングをやっている成人ミュージシャンの中には首、頚椎を痛める人もいる。

さて親鸞聖人の命日は、11月28日。毎年この日に浄土真宗大谷派では、大ヘッド・ンキンング念仏和讃大会が行われる。ただし歴史ある行事であるせいか、信者全員がこれをやると一定数の脳内出血などの障害を発症することが知られているのだろうか、約6000人の信者がこの坂東曲(ばんどうぶし)というヘッド・バンキング法会に参加しているにも係らず、実際にヘッド・バンキングしているのは、わずか56~80人ほど(朝日新聞と産経新聞で報道している人数が異なる)だけ。

坂東曲は、浄土真宗大谷派の本山・東本願寺(京都府下京区)、宗祖・親鸞の遺徳をしのぶ法要「報恩講」を締めくくるフィナーレとして行われる。念仏行の極致は、すべてが阿弥陀仏である世界を通過する。そこに至る伝統的テクニックとしてヘッド・バンキングによるトランス発現を用いているわけだ。

ヘッド・バンキングにより弥陀の慈悲の大海を目指すというのは、ある意味で正統的でもある。いわば肉体の損傷リスクを負って命を懸けて悟りを求める一風景である。

和製ヘヴィ・メタルでビルボードの年間ランク5位だったBABY METALにヘッドバンキングをテーマにしたヘドバンギャーという曲があり、その中でもヘッド・バンキングが見れます。坂東曲もyoutubeで観れます。

日本のタブー

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◎亡国の精神思想環境

日本には、タブーが多い。
天皇、皇室
アメリカ
宗教
政治
戦争責任
明治維新
ユダヤ
同和
原発
電通
芸能プロダクションのメディア支配
役所の裏金
第三国人(ヘイト・スピーチ)

マスコミというのは、当事者ではなく傍観者であるから、事の真相を伝達することができるのだが、タブーに関する報道をするとマスコミが暴力を受けたり、名誉毀損で高額な賠償金の訴訟を受けたりするようになって、マスコミはタブーに関する報道をますますしなくなってきている。

マスコミがタブーがらみの報道をしないのは、大いにタブー周辺の利害関係者をのさばらせることになり、真相を知るまともな人にとっては常に忸怩たる思いが募るものであって、腹ふくるるわざである。そういうものが至るところにはびこっていて、ネット上にそうした断片がころがっているのを見つけることもできる。

日本の平和な時代は70年続き、十分に爛熟し、大いにその間の膿が蓄積され、かたや国民のほぼ半分が貧困にあえぐ時代に再び回帰しつつある。タブーの広がりにより自由な思想言論は巧妙に封殺されている。こうした閉塞、鬱屈した国民の精神状態・集合的無意識が最近の大暑、大寒、洪水、大風などの激烈な気候変動を形成しているということもあると思う。

更に国民の日常の知的情的生活は、あらゆる依存により相当レベルにまで蝕まれている。依存とは、パチンコなどのギャンブル依存、アルコール依存、薬物依存、インターネット依存、スマホなどのモバゲー依存などである。

これをして亡国の精神思想環境と云うことができるのではないか。

自由国家日本にしてこうなのだから、中国や韓国など諸外国は推して知るべし。また近代西欧文明全体が死をタブーとして成立していることも忘れてはならない。


ダンテス・ダイジによるニルヴァーナ解説-1

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◎超人ダンテス(又はダンティス)の伝説

ダンテス・ダイジ自身の手による未公刊の断簡「超人ダンテス(又はダンティス)の伝説」に彼のニルヴァーナの見方が書かれてある。

『超人ダンテス(又はダンティス)の伝説

一般的な歴史の中でダンテスの名を発見する事はむずかしい。もしあなたがあらゆる宗教神秘主義的伝説への妄従者であり、その表に現れた密教的規律に従う事をもって、満足する人であるならば、ダンティスのアトランティス以来、現代に至るまでの間にいたる所にちりばめられたダンティスの暗示を読み取る事はできないであろう。

なぜなら、ダンティスのアトランティス密教の高度な道術は、アトランティスの黄金時代を別にすれば、ダンティスの教育的使命にはならなかったからである。

例えば、ヘルメス・トートメの秘教的奥義に決定的影響を与えたアトランティスの聖王トオスは、明らかに導師(グル)としてその立場を規定できるものであったがダンティスは常にその様な規定の枠外にあった。

ダンティスはそのニルバーナの究極的解放において全体性の観照者でありえた事はもちろんであるが、彼は、そこにとどまる者としてではなく、むしろ、ニルバーナの化身であり、全体性の至上の天国と極悪の地獄を自由自在に戯れるものとして生きた。

無限生命の絶頂を完全な解放を意味するニルヴァーナというサンスクリット語はアトランティス当時の正確な発音ではニーバーナとしたほうが良いであろう。
ニーバーナとは、ニーが無、バーナが有を表し、これはアメンと同じ意味の真言(言霊)であった。

 無          有    (タオイズム、禅仏教)
 ニー         バーナ   (主にインド・ウィグル)
 メン         ア     (主に古代エジプト・アトランティス)
 メン         アー    (キリスト教)
 ム          オー    (サンスクリットのマントラ・オーム)
 ウン         ア     (真言密教)
 カ          ミ     (日本古神道

ダンティスの生涯には、超越界を、自分の住所とし続けているいわゆる、聖者的な姿というものを、見いだす事は、できない。

彼は時に、多くのアトランティス並びにエジプトの人々にとって、そして、とりわけ、選ばれたごく少数の者に対しては、まぎれもなく、絶対無の内に宇宙を手玉に取って見せる事もできる人物であった。確かに彼は、人間という者が宇宙の内でどの様に戯れたら良いかを、ごく少数の弟子に伝えている。

もしあなたが独自の観察眼を、神秘学の歴史にむける事のできる密教学徒あるいは、完全にあたりまえな人間であれば、古代エジプトのヘルメス秘教の中に、エメラルド・タブレット、沈黙の声の中に、古神道の野立彦の神示の中に、ヴェーダやウパニシャッド文献の中に、さらには、オカルティックな奇説、例えば、悪名高き魔術師、アリエスタ・クローリーの若く純粋であった当時の著作の中に、さらには、ファンタジー作家のインスピレーションによる書物の中にさえ、ダンテスの名前やその足跡を発見できるかも知れない。

なぜなら、ダンテスとは、あなたの魂の暗闇の中に秘められている完璧な愛自身のことにほかならないからである。』

ニルヴァーナは、善も悪も超えた、有も無も超えた絶対であるが、そのニルヴァーナなる言葉自体がそもそも二面性を含むことを多くの正統的宗教の主たる用語において解き明かしている。古神道のカミという言葉すらも。

天国や極楽、浄土に入るということは間違いなく人間にとってまともな方向性であり必要なことである。しかしそれだけでは、ダンテス・ダイジの語る「天国と地獄を超えて」や「天国と地獄の結婚」については知的理解すらもできない。
また「人の個的自我は、固定概念や抑圧を受けることにより発達していく」というのも紛れもない事実であるから、一足飛びに「あらゆるくびきからの解放」を主張することが万人に受け入れられるものでもない。

個的自我を持って天国に入ることと、個的自我を棄てて天国も地獄も超えることは、全く違うことである。ところが、その後者の方は、現代社会の一般人にとって想像もつかないことかもしれないが、いまやそれがほとんどの日本人の人生にとっての最終課題になっている。

このように何の前提条件も詳細説明もなく、「個的自我を棄てて天国も地獄も超える」ことが自明とされる文章は、様々な誤解が生まれやすいことに注意して読むべきだろう。

ダンテス・ダイジによるニルヴァーナ解説-2

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◎死ぬものとて何一つない未知なる国をわれは歩きぬ

ダンテス・ダイジは、アトランティス大陸沈没後の紀元前九千年頃、彼は呪術師にして賢者ということで、当時のエジプトの年若き王子ネメシス四世の家庭教師であった。その日、ダンテス・ダイジは、ギリシア地方を、ネメシス四世とともに旅に出ていた。そしてアトランティス滅亡直前に流行した次の歌を口ずさむ。

『死ぬものとて
 何一つない
 未知なる国を
 われは歩きぬ----

 確かに私は、この国に生まれた。しかも私は、この国のものすべてが、何もかもが凍りついた見知らぬ獄舎となるのを見た。
 私が地獄なのだ
 それに間ちがいない。
 宇宙が地獄なのだ
 それに間ちがいない。

 私は宇宙の
 トラワレ人で
 頼るものなぞ
 何一つとてない。 』
【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】


更にこの光景は現代日本とシンクロする。

『死ぬものとて
 何一つない
 未知なる国を
 われは歩きぬ---

 確かに私は、今、この日本という国に住んでいる。そして、このアトランティス文明が崩壊する直前に若者達の間ではやった歌をくちづさむ。

 そして、この国が一つの獄舎になろうとする光景を見た。
 そして、アトランティス大陸が沈没したあとのダンティスのギリシアでの一場面を回想している。

 確かに私はニルヴァーナに安息した存在として日々を生きている。
 ダンティスもソムルス酒(エジプト・ギリシヤ方面では、ソーマラスはソムルスと呼ばれていた。)の酔いの中で同じ歌を歌った。

  われ神自身
  時々おもえり
  ニルヴァーナこそ
  サクラン
  ではないのかと---』
【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】


サクランとは錯乱の音である。しかしサクランとは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスの呪術におけるこの世の戯れの始まりである煙であるウミトであり、古事記に見えるこの世の始まりの煙みたいな葦牙であり、霊界物語の最も重要とされる天祥地瑞巻での神々の不倫のことである。

死ぬものとて何一つない未知なる国こそ覚者の日常であり、そういう日常ではない自称覚者は偽ものである。




ダンテス・ダイジの著作と断簡について

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◎どうでもいいには、二つある

ダンテス・ダイジの著作は、「超宗派的冥想」、「メディテーション・トラベル・ガイド」、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」と「アメジスト・タブレット・プロローグ」だけである。

詩集「絶対無の戯れ」は遺稿をまとめたものであり、講話録としては、渡辺郁夫氏のまとめた4冊の「雨宮第慈講話録」(十三番目の冥想、素直になる、君がどうかい、最高に生きたい)がある。

この他に最近ネットに出てきたものに、
老子狂言
戯れに冥想を
などがある。

基本線は、「著作」は万人向けに読まれることを意識したものであって、それ以外については、ダンテスの係累(弟子、知り合い)向けに限定的に残された断簡であるということだと思う。

著作については、冥想道についても冥想体系全体と冥想への取り組みがある程度論理的に説かれているが、そのロジックは、ニルヴァーナの体現者としてニルヴァーナに日常から出てきているものであって、通常の社会人の常識から理解することが困難な部分が多々ある。

絶対無の戯れは、勿論珠玉の作品が集まっているが、彼の詩の中でも社会人がすんなり読めるようなのを集めた印象がある。
これに対して老子狂言などは、いわゆる通俗社会人や駆け出しの冥想修行者が読んでも理解不能なものがほとんどである。


例えば「どうでもいい」【老子狂言】から
「どうでもいい

どうでもいいには、二つある。
初めのどうでもいい、は、
キマッテいない。
終りの、どうでもいい、は、
ステキだ。
そして、
初めも終りもないどうでもいい、は、
どうでもいいもどうでもいい!
みんな、
どうでもいいんだ。
みんな、
オレなんだ。」

これなどは、表面的に意味が取れるだけに、あらゆる低級俗悪なパフォーマンスを惹き起こしえる危険な詩である。

私ならこの「どうでもいい」は、悟った者が言う「どうでもいい」は正しいが、悟っていない者が言う「どうでもいい」は嘘であると説明するだろう。

ダンテス・ダイジは1950年生まれだから存命していれば64歳。彼は次の転生でフロリダ沖にい再浮上してくるネオ・アトランティス大陸に現れると予言したが、それまでの大峠・大転回はいまだ到来していない。はて、人間はそれに耐えられるほど成熟したのだろうか。

誠は天の道なり

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◎天道を誠にするは人の道なり

中庸より。
『誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり。誠は勉めずして中り(あたり)、思わずして得て、従容(しょうよう)として道に中る。聖人なり。これを誠にするは善を択んでこれを固執する者なり。』

【現代語訳】

誠とは天の道である。天道たる誠を現実のものするのが、人の道である。誠はさかしらな努力をすることなく道に中(あ)たり、思考することなく道を得て、心の自然な動きのままに道に中(あ)たる。これを生きるのは聖人である。誠を実現する者は、善を択んでそればかり行う者である。

【コメント】
仏教の七仏通誡偈にも諸悪莫作・衆善奉行とあり、聖人の生きる姿は善を択んでそればかり行う者であるとする。よって仏教も儒教も聖人の行動は共通である。誠は人間に属するものでなく、天の道である。これを人が履(ふ)み行う道とは、中国的には功過格みたいなものを思い浮かべるかもしれないが、それだけではないところがむずかしいところである。




モバゲー依存症も覚醒剤依存症と変わらない

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◎亡国への近道

モバゲーなどのインターネット依存症の人も覚醒剤依存症の人と同様な大脳の器質的変化が見られるそうだ。

『覚醒剤依存と変わらない

インターネット・ゲーム依存の深刻さを知る人は、「アルコールや薬物への依存と何ら変わらない」「覚醒剤依存と同じ」と断言する。インターネット・ゲーム依存の治療にかかわればかかわるほど、筆者自身もその感を強くする。筆者は医療少年院で、覚醒剤依存のケースの治療にも数多くたずさわった経験があるが、インターネット・ゲーム依存の若者がとてもよく似た症候を示すのに驚かされる。どちらも過敏でイライラしやすく、不機嫌で、集中力が低下し、目はうつろである。色は白く蒼ざめて、顔は伏せがちで、目を合わせようとしない。何も手につかず、以前はそれほど苦労せずにできていたことができない。無気力で、目の前のことには意欲が湧かず、投げやりである。

神経過敏、易刺激性(不機嫌になりやすい)、焦燥感(イライラ)、不安、うつ状態、無気力、注意力や集中力の低下、社会的機能の低下などは、どちらにも認められる症状だ。こうした症状の類似は単なる空似ではなく、必然性をもったものだったのだ。インターネット・ゲーム依存症の人の脳内で起きていることは、覚醒剤依存症やコカイン依存症と、基本的に同じだったのである。

問題は、覚醒剤やコカインは、白昼の店先では売っていないが、インターネット・ゲームは、いつでも誰でも、子ども部屋からでも、ときには学校の教室からでもアクセスできるということだ。タバコやアルコールでさえ子どもには販売されないが、インターネット・ゲームは、小学生や中学生といった子どもでもプレイすることに何ら制限はない。

そうしたことが放置されているのも、その依存の恐ろしさと弊害を、まだほとんどの人が理解していないためである。免疫のない集団に、新型ウイルスが感染爆発を引き起こすように、インターネット・ゲームは、あっという間に若者層に広がった。インターネット・ゲーム依存を中心に、それ以外のインターネット依存も含めると、その数は、子ども成人を合わせて、わが国だけで五百万人以上と推定されている。』
(インターネット・ゲーム依存症/岡田尊司/文春新書P8-9から引用)

長期にわたり覚醒剤や麻薬に依存すると、無気力・無関心で何事にもなげやりな人格の荒廃した状態が見られるが、インターネットやインターネット・ゲームに長期間依存した場合も同様な状態になる可能性が高いとみられる。

今やスマホを握って離さない若者は、街を歩いていても決して珍しい風景ではないが、実はそうした若者のうちのかなりの数の人が、衝動的でキレやすく、ややもすれば現実の課題よりもネットやゲームを優先するというのは、ありそうなことである。
そうでなければ、歩きスマホがこれほど増えることはないだろう。

200年ほど前、隣国中国の清国は、一説には国民の四分の一が阿片を嗜好し、阿片中毒者の蔓延は阿片戦争の原因となり、深刻な亡国の原因と考えられていた。
同様にインターネット・ゲーム依存の蔓延は現代日本の亡国への近道であると言えよう。



ハイチのゾンビ-1

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◎連れ出された死人の霊魂は、壺の中に封じ込まれる

ゾンビと言えば、映画バイオハザード・シリーズのヒットで今や知らぬ者とてないが、ゾンビの起源はカリブの小国ハイチである。

『よみがえった死体

ソンビの目撃例は今世紀に入ってからも絶えないし、大勢のハイチ人がソンビを恐れている。ハイチに長く滞在すれば必ずゾンビの話を聞く。民衆の多くがそれを信じている。伝え聞くところによると、ソンビはつぎのようにして誕生するという。

ヴードゥーの司祭にはウンガンとマンボの他に、ボコ(bokor,boko)と呼ばれるものがいる。ボコはクライアントの依頼により金銭で他人を貶めることを生業としている。このボコがゾンビづくりの魔術を執り行うのだという。 ウンガンの中にはポコを兼ねている者も多く、彼らは「両の手で仕える者」と呼ばれている。

まずボコはこれといった死体に目星をつけ、死体が腐り出す前に墓から掘り出す。そしてなんどもなんども死人の名前を呼ぶ。すると死体がむくりと起きあがる。ボコはさらに名前を呼び続ける。 死体は墓から這いだしきったところで両の手に縄を掛けられ、以後、ボコの使用人として、遠く離れた農園に売られていく。連れ出された死人の霊魂は、壺の中に封じ込まれる。ゾンビには魂がなく、したがってどんな仕打ちにも文句一ついわない。かれは未来永劫、奴隷として働き続ける。

終わりのない奴隷生活は奴隷の子孫たちにとってこの上ない恐怖である。たくさんの家族が死体が目を覚まさないようにと策を立てる。

埋葬後三六時間を過ぎると死体は復活しないとされるので、ずっと見張っている家族があれば、死体に毒を注射したり、死体を切り裂く家族もある。死者の右手に刃物を握らせ、ボコが起こしにきたら一刺し出来るようにしているケースまであるという。』
(ヴードゥー大全/檀原照和/夏目書房P58から引用)

死体が再度働き出す話は、ハイチだけでなく、チベットにもヨーロッパにもあるが、真偽のほどは不明。ただ「連れ出された死人の霊魂は、壺の中に封じ込まれる」という技術は、仏像などへの「魂入れ」という技術と同根なのだろうと思う。

こういう話が広汎に広がる社会というのは、社会全体に希望がなく、あの世とこの世の境目が近く感じられるような恵まれない日常生活があるのだろうということは想像できる。


ハイチのゾンビ-2

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◎あちこちにゾンビ生成の技術が伝わっている

最近見たゾンビ映画は、ワールド・ウォーZだが、爆発的な感染力で人間がゾンビに変化して人類の存亡を危うくするという基本線は、バイオハザードなどと一緒。

以下の引用文は神経毒によって人工的に自発性を欠いた能動的意思なき奴隷を作り出すというものだが、実はインターネット・ゲーム依存症、スマホ依存症、ギャンブル依存症、薬物依存症などのあらゆる依存症こそ人間が自発性を失っていくという自覚なしに自発性を失っていく「神経毒」のようなものであるとも考えられる。

依存症は安定志向する心性がある多くの人が陥りがちな罠である。安心、安全、安定した生活は、役人ならずとも平和的情緒の市民なら誰もが願うところである。ところがそれがあらゆる依存症の温床になり、その温床は、ゲーム業界、IT業界、パチンコ業界、麻薬業界などのあらゆるビッグビジネスの隆盛によって日々下支えされている。これらの産業はゾンビ生成の技術群とも言える。

そのシンボリックなエビデンスが、歩きスマホする人だが、これを毎日我々は目撃しているのだ。

そこで「実はわたしはゾンビなのだ」などと話しかけられても驚くにあたるまい。

『ハイチのゾンビ-1』は、通常の死におけるゾンビ召喚であるが、以下は神経毒を用いたゾンビの人工的生成の説明である。

『ゾンビの誕生

しかし実際のところ、人に呼ばれたくらいで死体がよみがえるはずがない。この話は無学な農民たちの言い伝えに過ぎない。本来ゾンビとは、嫌われ者に対する制裁だそうだ。もちろんハイチにも刑法はあるが、ゾンビは刑法とは無関係の伝統的な制裁の一つである。

まずフグ毒・テトロドトキシンを主成分とする毒薬(通称「ゾンビ・パウダー」) が嫌われ者の傷口にすりこまれる。神経毒であるテトロドトキシンは心筋や呼吸中枢の活動を抑制し、仮死状態をつくりだす。医者も欺かれ死亡診断書を書いてしまう。そして毒の量がちょうど良いと薬と施術によって蘇生されるのだ(毒薬の量が多すぎると本当に死んでしまう)。

しかし1~2日間という長い間無呼吸状態だったため脳の前頭葉は死んでいる。自発的意志のない人問、ゾンビの誕生だ。この状態のまま死ぬまで奴隷として働かされるのである。

この毒の起源はナイジェリアの小数民族でニジェール川デルタ地帯に住んでいたエフィク人やカラバル人が使っていたものらしい。毒物に対する知識が進んでいた西アフリカ社会では伝統的な司法機関によって毒が用いられていた。その知識が奴隷たちによって持ち込まれたのだ。

一方土葬が中心であったヨーロッパには、埋葬したはずの死者が墓の中から甦るといった伝説や迷信が数多く伝えられていた。またよみがえった死者は生者を襲ってその生き血をすするとも信じられていた。

この両者を結び付け、「ゾンビ=甦る死人」というイメージを定着させたのが、映画監督ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ三部作』である。
残念ながらハリウッド映画に出てくるような「不死の化け物」はいない。だがゾンビが興味深い存在なのは間違いない。

いまもハイチでは「マーケットでゾンビをみた」「私は実はゾンビだ」といった類の話は本当に多い。「あいつらは塩に弱い」といった俗信もひろく知られている。だが広く環カリブ世界一帯に黒人奴隷が運ばれたことを鑑みると、ハイチ一国にとどまらず、あちこちにゾンビ生成の技術が伝わっていると考えるのが普通ではないだろうか。

例えばジャマイカの「ダピー (duppy ,dupy)」はゾンビと同じものだと考えられるし、ブラジルには(カズンビ(cazumbi)と呼ばれる神霊がいるそうだ。』
(ヴードゥー大全/檀原照和/夏目書房P59から引用)

ネット・ポルノ中毒or依存症

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◎ポルノを繰り返し見て深みにはまる

スマホでどんどんポルノ画像、ポルノ動画が見られるようになった。他人に見られる場所では見ていないのだろうが、日本人をダメにする依存症として、ネット・ポルノ中毒or依存症は無視できない比重があるものと考えられる。

ネット・ポルノを毎日見続けることによって、脳の快楽中枢が繰り返し刺激されることにより、脳内のニューロンがネット・ポルノを見ると興奮するというニューロン結合を固定化する。固定化した回路(マップ)はますます使用しようとする傾向があり、これによって、見ないことで禁断症状が起きるまでに脳内のドーパミン回路が変化してしまうのだ。

ネット・ポルノの悪影響は、自慰はできるが実際の女性とセックスできなくなるとか、ネットポルノに登場する女性像が実際の生身の女性像と同じと誤解することによる男女関係の不和とか痴漢や淫行等の性犯罪の誘発まで様々なものが考えられる。

ネット動画やネット画像のかなりの部分がポルノだとも言われており、また電車内スマホでも、モバゲーも問題だが、こっそり見ているポルノも大いに問題なのである

『中毒と可塑性の切っても切れない関係

ネットポルノ中毒というが、それは比喩ではない。中毒症状がでるのは、薬物やアルコールだけではないのだ。ギャンブル中毒もあるし、ランニング中毒さえある。中毒とは、その行為をコントロールできなくなることだ。悪い結果になるとわかっていても、駆りたてられるように求めてしまう。そして耐性ができるので、さらなる刺激を求めて満足を得ようとする。ついには、その行為ができないと、禁断症状がでるのだ。

長期(ときには一生)にわたる脳の可塑的変化によって生じる中毒を治療するには、節制などとんでもない話だ。その物質や行為とは、きっぱりと手を切らなければならない。アルコール中毒者更生会は、「元アルコール中毒者」など存在しないと言う。実際、もう何十年も一滴も酒を飲んでいない人にも、こんなふうに自己紹介させるのである。「ジョンといいます。アルコール中毒者です」。脳の可塑性という観点からすると、これが適切な言い方であることも多い。

(中略)

マーゼニツクの研究で見てきたように、ドーパミンは可塑性にも関係している。喜びのもとになるドーパミンだが、同時に、目標を達成するための行動をするニューロンの結合を固定化するのだ。 マーゼニックは、動物に音を聞かせながら、電極を使ってドーパミンの報酬システムを刺激した。するとドーパミンの放出によって脳に可塑的変化が起こり、その動物の聴覚マップにおいて、その音の部分が大きくなったのだ。ポルノとの関係で注目しておかなければならないのは、ドーパミンは、性的な興奮によっても放出されるということだ。男と女、両方のセックスに対する要求を高めて、オーガズムを得やすくする。そして脳の快楽中枢を活発にする。ポルノが人を夢中にさせるわけである。』
(脳は奇跡を起こす/ノーマン・ドイジ/講談社インターナショナルp132~133から引用)


イスラム国雑感

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◎文明国の真価が問われている

イスラム国とは、イスラム過激派武装組織「イラク・シリアのイスラム国」(ISIS)のことで、そのパフォーマンスは国際匪賊と呼ぶのが適当だろう。

2014年8月、イスラム国は、米フリーランス・ジャーナリスト、ジェームズ・フォーリー氏(40)を人質として、釈放する条件として、
(1)ISIS支配地域への空爆の即時停止と
(2)身代金1億ユーロをアメリカに対して要求していたが、これを拒否。まもなくイスラム国は、フォーリー氏の首を切り落とす残虐な映像をインターネットで流した。

今般2015年1月、日本には2億ドルを要求し、不調に終わったらしいためか、湯川さん、後藤さんとも同様に首を切り落とす残虐な映像をインターネットで流されたようである。

確かに文明社会から見れば言語道断である。しかし、明治維新ものを読めば、1874年(明治7年)2月の佐賀の乱では、江藤新平も晒し首になったし、西南の役の西郷隆盛も晒し首になったというし、日本でもつい100年前には同じようなことをやっていた。こうした民衆意識の文明度の違いは、たとえば中国のテレビの交通事故ニュースでは、なぜだか血みどろのシーンまで見せることがあるというようなことで、なんとなく想像がつくものである。文明の進展により意識はより繊細に変化していくものなのだと思う。

殺人は文明化の如何を問わず悪である。しかし、人情とか人倫とか政治とか地政学とかインテリジェンスとかを抜きにして考えると、文明国の記者たちが、やや遅れた国に入ってこういう目に遭うのは、結局文明国側は、うわべの上品さと裏腹に野蛮で邪悪な部分を未だに昇華できていないということのシンボリックな現れと見える。
文明国の真価が問われているのだ。

そういう部分を世界戦争なしで卒業していけるかどうかが、70億人類中で悟った人が何人出ているかにかかっているというのは、旧約聖書のロトの時代から何も変わっていない。

2月3日は節分で年が変わるのだが、この時期霊能者や神秘学徒はその微妙な風向きの変化を感じとるものだ。この度の節分は、欧州も荒れ、中東も荒れ、朝鮮半島も荒れ、気象も荒れそうな雰囲気を感じさせている。



高野山の虚空蔵菩薩求聞持法

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◎虚空蔵と一なるもの

2015年2月1日NHKで1979年頃の高野山の修行風景を放送していた。真言宗寺院の後継者の若者達とおぼしき人々が寒中に水行をする場面などあったが、目をくぎ付けにされたのは、あの虚空蔵菩薩求聞持法のメッカ高野山真別処円通律寺でのズバリ虚空蔵菩薩求聞持法修行風景が映しされたのシーンだった。

過去1200年の伝統ある高野山だが、真別処円通律寺の一室には、虚空蔵菩薩求聞持法満行者の札がズラリと立てかけているのだが、満行者の数が千年を超えるにしては意外に少ないのである。

虚空蔵菩薩求聞持法とは、
ノウボーアーカーシャギャラバヤ オンアリカマリボリソハカ
という虚空蔵菩薩の真言を日に一万遍、百日間唱え続け、同時に印契を結び、虚空蔵菩薩を観想し、牛酥を加持するもので、成就すれば牛酥が霊気を発したり、光を放ったり、煙が立つなどの奇瑞があるのだが、一日2万遍で3か月程度のマントラ念唱の後、奇瑞がなければ、また最初からやり直しというギリギリの修行であるがゆえに満行者が少ないというような説明をテレビではしていた。

虚空蔵菩薩求聞持法は、私が高校生の時に友人が超能力を利用した記憶力増強法で桐山靖雄の本があることを教えてくれたことで初めて知った。

この一なるものに、あらゆるこの世とあの世のものが一つながりにつながっている。これは一般にアートマンと呼ばれている。このアートマンという一切経・大蔵経、あらゆる受験知識をも含んでいるデータベースのことを虚空蔵と呼ぶに違いない。

ダンテス・ダイジは、過去のことを思い出すやり方に2とおりあり、一つは個人的無意識から思い出すやりかたと、もうひとつは一なるものにアクセスしてそこから引き出すやりかたであると。そして思い出すスピードは、一なるものにアクセスするほうが早くどんなに古い記憶でもたちどころに思い出せるというような説明をしている。

ある弟子がダンテス・ダイジに彼の電話番号を聞いたら、ダンテス・ダイジが「ちょっと待て」と言って、少し上のほうを見上げ、少しづつ途切れながら、「03-○○○ー××××」と言ったというシーンがあるが、これなどは、その一シーンなのだと思う。

人間は、その一生で悟らなかった人でも死の最初のステージで原初の光明(チベット死者の書にでてくる)にアクセスするが、原初の光の一つのアングルこそ虚空蔵なのではないかと思った。

虚空蔵菩薩求聞持法とはあらゆる経典を記憶することのできる記憶力増強メソッドであるという一般的な説明は、一種の釣り文句に過ぎないのだろうと思った。


世に出ている守護神

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◎世に出てる守護神で、一方も役に立つ方はいない

出口王仁三郎の寓言。
『○世に出ている守護神

(大本神諭には)世に出てる守護神で、一方も役に立つ方はいないと書いてある。
(昭和二十年9月4日)』
(新月の光(下巻)/木庭次守編/八幡書店P298から引用)

ここでいう守護神とは、守護霊のことではなくて高級神霊のことを云うのだろうと思う。
古神道では、顕と幽とあるから、顕の方のことを「世に出てる守護神」としたのではないか。

顕のうち、顕の顕とは、人間のことであり、
顕の幽とは、国祖国常立尊、豊雲野尊など、一度現世にその肉体を表現された神であって、地上の幽界を主宰する神。

ダンテス・ダイジも高級神霊のサポートは、確かにあることはあるが、ぎりぎりのところで頼りになるほどのものではないとしている。クリシュナムルティでもOSHOバグワンでも道元でも守護神に助けを求めましょうなどというシーンは全然ない。

ところが高級神霊頼みの動きが激しいのが、精神世界ブロガーの世界である。もちろん中には、守護神サポートを当てにしないまともな人もいるのだろうが。

守護神サポートとは、功利、メリデメ、現世利益の延長線上にあり、マンモン、白狐もその代表的なものである。そうしたものに別れを告げられることを迫られているわけだ。

ダンマパダの真人

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◎その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば

『第七章 真人

90すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。

91 こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。

92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地はにして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。――――空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。――――空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

94 御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人――――――このような境地にある人を神々でさえも羨む。

95 大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎しみ深く、(深い)湖は汚れた泥がないように――――そのような境地にある人には、もはや、生死の世は絶たれている。

96正しい知識によって解脱して、やすらいに帰した人―――――そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行ないも静かである。

97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、――――かれこそ実に最上の人である。

98 村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。

99 人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛着なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。』
(ブッダの真理の言葉、感興の言葉/岩波文庫/23-24から引用)

なぜ快楽を求めないか。彼らは既にその快楽を楽しむ体験を十分に尽くしたからである。だから愛着はない。
あらゆる人間としての体験をし尽くして、世に倦む人々の正しくいきつく先が生死をも超えたニルヴァーナであるとは、説くのは簡単だが、理解し納得するのは、極めて困難である。
というのは、彼らと同じステージに立っているという自覚のある人は少なく、また生死を超えた、天国も地獄も結婚したところのニルヴァーナを求める動機を持つ人もさほど多くはないからである。

スポーツと老化

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◎筋肉の痩せと冥想修行

老化に伴い全身の筋肉が痩せていくのは知られるようになった。私も老化に伴う筋肉の喪失を自覚するところがあり、そこで筋力の復活を目論んで昨秋より少々のジョギングを始めた。

もともとスポーツは、肉体の健康維持あるいは健康増進とは何の関係もない。よって冥想修行者の修行カリキュラムには、いわゆるスポーツは入っていないものだ。

ただし、禅宗の専門道場での若干の作務とその他は坐禅冥想修行というカリキュラムにおいてすら、経行という猛ダッシュによる全身血行の促進メニューが入っている。若い時は、これも、気分転換にもなるし、冥想中に沈滞しがちな血行を回復するのは良いことだと思っていた程度なのだが、今思えば、肉体の健康が精神の修行を支えるという大原則に則ったものだと確信できる。

クンダリーニ・ヨーガは、三昧などの深い冥想に入った後ほど全身の血行の回復が問題になるのだが、そこで激しい全身運動を行うのだということを聞いたことがある。クンダリーニ・ヨーガのカリキュラムは、その危険性ゆえに開示される部分は少ないのだが、深い冥想であればあるほど、この世に帰って来ない確率が上がることも知られているのだが、生還した後ノーマルな社会生活を営むためには、スポーツとは言わないまでも、ある程度の激しい運動が必要な冥想シーンが必ずあるものだと思う。

エーテル体が痩せずに肉体だけが痩せていくと、肉体からはみ出たエーテル体は、いわゆる霊能力のアンテナみたいなことになって、心ならずも霊能力が開顕するようなことになりがちなのだろうから、肉体の衰えというものは自然といえば自然なのだが、微細身も含めてトータル・ボディとして何が起こっているかを推察し対応することは必要なのだと思う。

クンダリーニ・ヨーギ本山博のハタ・ヨーガ・テキストで全身各部位の軽運動みたいなのが沢山入っている。若い時はそれらに何の必要性をも認めなかったのだが、最近になって、それらが筋力維持のためのメニューであったことに気づいた。クンダリーニ・ヨーガのメニューは柔軟系と呼吸系が多いのだが、中高年ハタ・ヨーギのために筋力維持系も含まれていたわけだ。

釈迦が四禅からニルヴァーナに出たように、人間は肉体があって悟る。肉体もちゃんとしないといけません。

現代人は想像力が弱くなっている

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◎観想法の原動力

思考、思念はいつかは実現してくるものだ、現実化の時期がその人の今生であるかどうかは別にして。またその思考、思念は時を経て変わっていくことがある。

身近なもので、思考、思念の現実化を応用しているものには珠算がある。頭の中に算盤を思念でもって構築し、そのそろばん珠を思念でもって超高速で動かしているからである。

ゴルフもフォームが固まらないうちは思念、念力は問題にならないが、フォームが固まってきたらアプローチとパットは思念の現実化の勝負だろうと思う。アプローチとパットが純粋に筋肉パワーとテクニックによるものであれば、技術の積み重ねの多い中高年ゴルファーほど上位になるべきだが、そうはなっていないところが、思念、想像力の現実化の勝負という側面が強いように思う。

同じようなことは野球の投手にも言えるのではないか。球速はフォームと筋肉によるが、コントロールの半分は、イマジネーション、想像力の現実化力によるのだろうと思う。

さて身近な想像力だが、どんな人でも願望実現に際しては、「実現させよう」と思念し実行に移るものだ。

ところが、この想像力が、現代人は、古代人、中世人に比較してどんどん弱体化してきている。古代においては、PCもデータベースとしてのハードディスクのような外部記憶媒体がないものだから、記憶としてあらゆる情報を心内に保持し、思念を原動力として記憶内の心像を動かして、願望実現のサポートとしていた。

例えば東大寺の金剛力士像は3000ものピースに分解されたというが、この金剛力士像全体の3D設計図面はある人物の心像にあるのであって、ハードディスクにあるのではなかった。

よって古代人は現代人に比して心像そのものを明確に心の中に保持し他人に伝える能力が高かったと想像されるが、現代人はそういう能力が退化した。現代が同様の心的テクニックを必要とされる時代であれば、古代ローマばりの記憶術の重要さがかまびすしく言われているはずだが、そうはなっていないからである。

どうして退化したか。それは、言葉や文字などの言語が発達し知覚像を言葉に抽象化し人に伝えることに慣れてきたためだと考えられる。こういう人類の時代にマスコミが様々な動機により、マスで大衆の心をコントロールしようと動き続けるのは、まさに想像力退化を踏まえた当然の動きと言える。

更に想像力を退化させようと、スマホやPCにより言葉や文字に加えyoutubeなどの映像が強化されたのは、いわば思念力、想像力退化の総仕上げである。

思念力、想像力が著しく弱体化された人間は、マスコミにより、その思考、発想、感受性すらも想定の範囲内にコントロールされているという自覚すら持てないままにコントロールされがちである。
それが証拠に世のブログ記事のかなりの話題がマスコミの提供するニュースとなっている。無自覚に自分とほとんど現実の係り合いの薄いニュースを日常の主要関心事にさせてしまうということこそ、肝心なことに関心を向けさせないという意図があるのではないかと疑うべきなのだが。今日も誰かの不幸なニュースをおかずの食事をする日常って、不幸の拡大再生産みたいに感じないのだろうか。

昔は、神を観想し、神に近づこうという発想が想像力の用い方としては主流だった。
いつのまにか社会には神のカの字もなく、それへの想像力も蜘蛛の糸の如くかそけきものに細ってしまった。

OSHOバグワンの輪廻転生-1

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マンツーマン輪廻説の否定

世界樹から説き起こした七つの身体論は、輪廻転生の見方で完結する。輪廻転生の見方について、ここでは、OSHOバグワンのそれと、ダンテス・ダイジのそれを挙げる。両者の説は非常に似通っており、私の見るところ、その説明こそが現代人にとって妥当と思われる。それらに加えダライ・ラマの輪廻転生説、最後の審判説、釈迦の見方なども挙げる。

いわゆる神秘生理学あるいは、神秘的世界観を広汎に説き起こすには、例えば古神道の四分類である、幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕というのがある。これは、極めて論理的でスッと頭に入ってきやすいが、その実何も理解できていないことになりがちである。

七つの身体と云うダイナミックな世界観が我々人間の生きている現実であることを確証するには、中心太陽に突入するしかないが、それは通例常人の叶うことではないので、その生還者である、OSHOバグワンとダンテス・ダイジの高説を拝聴するしかないだろうと思う。

それぞれが全く異なる七つの次元を人はどのように通行しているのか、それが七つの身体を前提にした輪廻転生ということである。それにすらも自由が与えられていることを釈迦は四禅から涅槃に入ることで示してもいる。


さてOSHOバグワンの輪廻転生論を語るには、その七つの身体論について簡単に振り返る必要がある。

第一身体の肉体から第四身体のコーザル体までは共通。第五と第六が異なる。OSHOバグワンは第五身体をコーザル体とせず、アートマンが第五身体で、ブラフマンが第六身体であるとする。つまり第五身体について、ダンテス・ダイジは個であるコーザル体だが、OSHOバグワンは、個ではないアートマンとしている。これが違いだが、七つの身体トータルとしては、どこから個がなくなるかがずれているだけで、個がとある時点で喪失し全体に切り替わという流れは同じ。

OSHOバグワン説の第五から第六への誕生とは、第五の「われ在る」が第六の「在る」に進むことを云う。

以下の引用文を素直に読んでいくと、いわゆるマンツーマン輪廻説が否定されていることに気がつく。

『第五から第六へは誕生があり、第六から第七へは死がある。だから後者を体験した人は、二度生まれた者とは呼ばれない。それには意味がない。わかるかね?もう簡単に理解できるだろう。

第五から第六へは、自分自身からの誕生があった。第六から第七へは、自分自身を通しての死がある。私たちは他者から―――――他者の体から生まれた。そして、それに続く死も、他者と関わるものだ。この点を説明しよう。

あなたが他者から生まれたのなら、どうして死も、あなただけのものであり得るだろうか?どうして、そんなことがあり得よう?ふたつの端は、関連がなくなってしまう。他者が私に誕生を与えてくれたのなら、死は私のものではあり得ない。他者から誕生がもたらされる時、死もまた、他者からもたらされる。』
(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P362-363から引用)


OSHOバグワンの輪廻転生-2

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◎あなたはどこかで死んでから今生に出現した

OSHOバグワンの輪廻転生説の続き。
以下の引用文は、自我の死をもって、ブラフマンたる第六身体が誕生することを云う。個である肉体の自分が死ぬことは、アストラル体などの個的媒体が死ぬことでもあり、第五身体たる個が死ぬことでもあるとする。

第五身体たる個が死ぬこととは全体が目覚めることであり、悟りでもある。肉体が死ねば誰でも悟れるのだと言っているようでもある。

OSHOバグワンの説明のとおり、あなたの肉体は第三者である両親によってもたらされ、肉体死に際して、第三者である両親とは係り合いのない別の次元の第三者に戻っていく。


『違いはこうだ。まず、私はある子宮から現れ、次に他の子宮へ入っていく――――しかし、私は気づいていない。私がこの誕生を受けた時、それは明らかだった。しかし今、私が去っていくのは、はっきりしない。死は誕生につながる。あなたがどこかで生まれる前、あなたはどこかで死んでいたのだ。誕生は明らかだ。しかし死について、あなたは意識していない。

今あなたは、母親と父親から生まれた。あなたは体、すなわち七十年から百年間、機能するような器官を得た。百年経つと、この装置は働かなくなる。働きを止める日は、誕生の瞬間にあらかじめ定められている。体がいつ果てるのかは、さほど重要ではない。重要なのは、体は果てるものだという点だ。誕生と共に、あなたが死ぬことについては決められている。誕生をもたらした子宮はまた、あなたに死をももたらす。あなたはそれらを、一緒に携えてきた。実際、死は誕生を与える子宮の中に潜んでいる。百年の合間があったにすぎない。

この百年のうちに、あなたは一方の端からもう一方の端への旅を完結させ、まさに正確に、あなたがやって来た次元に戻るだろう。あなたの体の死は、誕生の際に他者から受け取られる。だから死もまた、他者からやってくる。だから生まれるのもあなたではなく、死ぬのもあなたではない。

誕生の際には媒体があったが、死に際しても、同じ状況があてはまるだろう。第五のスピリチュアル体から、第六のコズミック体に入って、初めてあなたは生まれる。あなたは自ら生まれる。あなたの誕生は、子宮なしのものだ。しかし同時に、次は自らの死があなたを待っている。

子宮なしの死が、あなたを侍っている。この誕生が、あなたをどこへ連れていくにしろ、そこからは死が、遥か遠くへとあなたを連れていくだろう。誕生はブラフマンに、死はニルヴァーナへとあなたを導く。』
(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P362-363から引用)

更にOSHOバグワンの死のプロセスの説明に、『死ぬときは、まず肉体が落ち、残りの6身体は自分と共にとどまる。第五身体に到達すると第二身体から第四身体の3身体が落ちる。更に第七身体に入るとそれまでの六つの身体はすべて滅びる』(出所:奇跡の探究2/和尚/市民出版社P470-471)


以上のOSHOバグワンの説明によれば、死の世界における個の次元であるエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体をすっとばして、人はいきなり『子宮なしの死』である第六身体ブラフマンに誕生し、死なるニルヴァーナに進むという説明である。

ところが、第六身体からは時間のない今ここだけの世界で、個もない世界。だから第五身体から第六身体への移行は、個なる魂がそのまま第六身体に入るというイメージは間違っている。とてもシンボリックな表現だが、第五身体から第六身体への移行は自分という個のすべてを捨てさせられるからである。

そういう意味において、
この描写はチベット死者の書で死のプロセス冒頭で原初の光を見る体験に連動するものだと考えられる。死の最初のステージには個のステージはなく、全体たるアートマンのステージが優先して出てくるというチベット死者の書の描写は、肉体や個別性を残したボディと全く異なる次元のことを述べていることに注意して読むべきだろう。


ダンテス・ダイジの死と転生-1

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◎霊が存続するメカニズム

以下はダンテス・ダイジが、死と転生のメカニズムを端的に語っているある座談。

一本の木とは世界樹のことで、あらゆる世界が一つながりになったアートマンである。この樹に葉っぱとしてAさんが生まれる。そして葉は秋になると死んで散るが、その時にその葉は宇宙意識なるアートマンに帰って行く。

チベット死者の書で、人は死ぬとすぐに原初の光を見るというがそれがこの部分に当たる。

次の春に枝の同じような部分から葉が出る。この葉がAさんの輪廻転生。このワン・ターンの転生を形成する宇宙の潜在的パワーをダンテス・ダイジは幽霊と呼び、いわゆる霊界メカニズムをいとも平易に解き明かしている。


ダンテス「霊っていうのが存続するっていうのはさ。こういうプールがあるわけ。無限のプール。
そのプールからいろんな人が出てるわけ。

一本の木を考えてもらってもいい。木があるでしょ。枝があるでしょ。ここから葉っぱが出るわけよ。これがたとえば君だとするよ。

冬になって葉っぱが落ちるわけ。でも次の春になるとまた葉っぱが出るわけ。そのときに葉っぱを出す部分ていうのはさ、似たような形を作り出す形成力が働いているわけでしょ、枝の中に。

その力のことを幽霊っていうんだ。たとえば、ある海があるとするでしょ。こっちにはいつも荒い波ばかり起こるとするでしょ。こっちには平穏な並みしか起こらない。こっちの海面下の潮流の動きは向こうと違うわけ。その潮流の動きが幽霊なんだ。

だけどそれを潮流の動きとしてとらえることが人間の普通の認識力ではできないから、しょうがなくて人格化されて表出するだけであって。

プールがあって、宇宙意識っていう無限の海原に人は死ぬと行く。その海原の中には無限のイメージが蓄積されているんだ。そのイメージが、時にイメージ自体で現れたとき、それを幽霊と呼ぶ。

イメージが仮に肉体として表現されたとき、それを生まれ変わりという。」

弟子「海に帰っていくっていうのは一人で?」
ダンテス「一人とか二人っていうのはまったく数えられない。」
弟子「容積とか体積とかそういう尺度じゃなくて?」

ダンテス「うん。そういう物理的概念っていうのはまったく適用できない。だから二人とか半人とか中人とかね、現世では男とか女とか、一人二人と数えられるでしょ。ところが、宇宙意識のプールの中ではね、1.5人とか1.8人だって実際には存在するんだ。だけど1.8人なんて現れてみろよ、確認できないだろ。一人二人と数えている意識のレベルで生きている人間にとっては。だからしょうがなく、一人の形を取るわけ。だから絶対に客観性っていうのを帰せないわけ。幽霊の言葉っていうのは。どっか、混ざってるわけ、無数のものが。

首尾一貫した物理学的な説なんて、絶対に幽霊の言葉にありえない。
なぜかっていうと、無数の意識のレベルでイメージがさ、錯綜しながらその中に一貫性を作ってメッセージが届くんだもの。

だから真の霊眼ていうのは、霊媒に起こる霊眼ではないの。霊媒に起こる霊眼ていうのは、今言ったように、その人に合わせた形で、その人の枠の中に現れるわけ、イメージが。だから足りない部分を勝手に補ってしまうわけ。潜在意識が。その人の個人的潜在意識が。勝手にでっち上げてしまう部分が出てくる。

釈迦が言う神通力っていうのはね、宇宙意識のプール、宇宙意識の海そのものを見渡すわけ。だから一度なんだ。分けられやしないんだ。念力とかテレパシーとか色々あるだろ? 前世通とか宿命通とか、過去生を見たり幽霊を見たりとか。そんなもの全部、一つながりの宇宙意識から起こったものだ。」』

この座談では、アートマン全体の中の様々な具象を形成する元型的イメージたちを幽霊と呼んで、話題の中心は幽霊の側になってしまっている。

これより更に輪廻転生の核心に近い部分を語っている座談が続く以下のものである。
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