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ダンテス・ダイジの死と転生-2

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◎死と転生のメカニズム

ここで質問者は、一つの個なる霊魂が死ぬと霊界に渡り、再生して現世に戻り、また死ぬと霊界に戻るみたいな通俗的輪廻転生観を想定しているのだが、ダンテス・ダイジは、そんな社会的通念みたいなものすらおかまいなしに、そのものズバリで、人間の輪廻転生のメカニズムを明かしていく。だから一見質問と回答はかみ合っていないように見えるが、実はパーフェクトに回答は尽くされている。

それは、人は死ぬとまずこの万霊万象が一つながりになったもの、それはアートマン・第六身体のことだが、それに帰る。ダンテス・ダイジは、アートマン・第六身体のことを、アラヤ識、アカシック・レコード、愛、光、「今、ここ」などとも呼んでいる。

人は死ぬと、本人の自覚の有無にかかわらず、この一なるものに帰っていく。そして一枚の葉である人間は、前に出たところに近い枝から再生する。それをもって輪廻転生と称する。転生前後の二枚の葉は、大体似ているけど実は違う。それが実相。

この見方はとても機能的であって、いわゆる人間の側から見た見方ではない。この見方からは、一見、善悪や真善美などは引き出せないように見える。よって、このメカニズムだけをもってこの世の展開を考えると、ろくでもないことを真実だ真理だと吹聴し、そういうことを考えたり実行したりする手合い(カルト、拝金主義、利己主義など)が相当数出て来ることが想定される。それをダンテス・ダイジは、「ダンテスの悪影響」と呼んでいた。

ただし一なる者、一者、アートマンとは、神のことであり仏のことでありタオのことなのだが、それを冥想の中で確認できた人間の心にも行動にも、もはや悪はないことをあらゆる成道者が証明しているともいえる。それを今の社会常識、科学の論理性の枠内で証明することはできないので、それについては直観的に「あなたはどう感じているか」だけが鍵になってしまうのだが。

さて、このメカニズムこそチベット死者の書で死の冒頭に原初の光が出現するのと符合し、このメカニズムが正しい事を承知している人はその線に沿って輪廻転生の説明を行っているものだ。それが釈迦であり、ダライ・ラマだと思う。

また、このメカニズムのもとで、閻魔大王の死後審判、縁起、一生のパノラマ回顧などがあるので、この基本線の理解がなければ、こうしたディテールの見方も誤ってしまうのではないだろうか。

ダンテス・ダイジは、一者と合一する「体験とはいえない体験」のことを三昧と称し、それを冥想修行の目標のひとつとして掲げている。

ダンテス・ダイジと弟子の座談。
『ダンテス「ただし、今言ったように、ここに瓶がある、10分後もここに置いたままならあるだろう、そういう範囲で転生っていうのはあるよ。うん。」

弟子「そうすると、死ぬっていうのは本質的に、人間に生まれ変われる分においてはそれほど苦痛ではないとして、なんかこういろいろ転生するじゃない。その辺のカラクリっていうか、なんでそんなことをやってるのかとか、自分が選んでやってるのか、誰かに命令されてやってるのか、その辺のカラクリは一体どうなっているのかな。」

ダンテス「それはね、たとえば木を見ればいい。一本の木があるでしょ。その木から枝が出てるでしょ。それで枝に葉っぱが出るわけだ。すると、今年葉っぱが出て、冬になると落ちると。来年になるとまた同じ場所から葉っぱが出るわけだ。そのとき、その出る葉っぱは、去年出てた葉っぱとは違う葉っぱが出るわけだ。」

弟子「まあ大体似てるけど違うっていう。」

ダンテス「そのときに、葉っぱを出させようとする形成力が、この枝自体にあるわけだろ。形成力が。その形成力の影響を受けて、前に落ちた葉っぱの後続としての葉っぱが出るわけでしょ。
同じ場所から出るとしたら、必ず何らかの形で、前に落ちた葉っぱの後続でしょ。全然関係ない葉っぱではないでしょ。その範囲で転生っていうのは起こるわけ。」

弟子「永遠の命っていうか、魂的なものが枝に値して・・・」

ダンテス「うん。転生っていうのはね、正確に言うと、魂が時間の上をこういう風に渡り歩くものではない。ではなくて、時間と空間と物質を全部ひっくるめたね、今っていうものがここにある。これをアラヤ識とかアカシック・レコードとかアカーシャとか空とか言うんだ。ここにある。すべてが。
で、ここにあるものの中に帰るわけ。帰った自覚がないけど、帰ってるわけ。それを自覚するために、冥想っていう経験がそれをはっきりさせるわけ。」


弟子「たとえば、三つの転生があるとするじゃない。これが今で、過去、未来だとするじゃない。
で今ここにいるとすると、帰るっていうのはどういうことになるの?」

ダンテス「ここに帰る。いつでも。これをあらしめている、元に帰るわけ。過去・現在・未来はすべてここにあるわけ。」

弟子「それは未来に対する原因がここに含まれているっていう意味においては分かるけれども、そういう意味で言ってるの?」

ダンテス「ううん、そうじゃない。すべてがここにある。つまり、ここから出ていくときに、どういう形で現象化するかっていうことなの。現象化するには、時間と空間と物質っていう枠の中に移さなくちゃいけない。もともとあるものは、時間も空間も現象もありはしないわけ。ところが人間の観念が、そういう枠から世界を見ようとしている、その枠を作り出している。その枠を取り払うために冥想しろって言ってるだけ。

その枠っていうのは人間の中にある枠なんであって、動物においては世界は全然違う世界なんだよ。人間の枠がたまたま、過去現在未来とか時間とか空間とか距離があるとか勝手に思い込んでるだけだ。一つながりの命がある。それは光といってもいい、愛といってもいい。そういう命がびっしり満ちわたって流動しているのさ。命自体が。」

弟子「その枠っていうのは、どっからできたもの? 発生として。」

ダンテス「発生っていうのは、全体の命自体が具象化して、個々のものになるときに起こるわけ。だから、その枠が物語の原因なんだ。だからその枠を消しちゃうと、もう一つながりの命の中に溶け込んじゃう。それを三昧っていうわけだ。その三昧っていうのが、今度、具象化して、Aという人間、Bという人間になるためには、必ず枠の形式の中でそれが行われる。」


ザ・ジャンプ・アウト完結について

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◎無用の用

世界樹から説き起こした七つの身体論である「ザ・ジャンプ・アウト」は、ニルヴァーナの章に少々の輪廻転生論を加えて完結した。

悟りを説明するのは、簡単ではないが、そのバックグラウンドであり、正体でもある七つの身体論の証跡を、古今東西の覚者の言説の欠片からジグソーパズルよろしく組み上げることになった。その全体の出来上がりから、神仏の似姿か人間の似姿が見えるようなら、うまくいったと言えるだろう。

ニルヴァーナを体験したことはないが、見た人や直観した人や感じとった人というのは居るものであって、そうした人の言説は貴重であるが、無知な人が勝手に想像したニルヴァーナを描写する場合がありそれは間違いとなる。

けれども私のような未悟の者が、厳密にそうした真贋を見抜くのは必ずしも正確を期しがたいものであるから、結果的に間違いを書いている場合もあるかも知れない。またその事柄の存在する次元が異なれば、同じ事柄を描写した文章でも、ある次元では真実だがある次元では間違いであるということがありえるし、OSHOバグワンが言うように、神秘に属する事柄には、そのままカミング・アウトすれば世の中の弊害になるものがあるので、そうしたものは故意に間違いを伝承するというようなこともあるらしい。

よって、ダンテス・ダイジの言ではないが、『ここに書いてあることは、嘘かもしれない』などと言わなければならない。

悟りそれ自体も、努力をすれば誰でも見神見性できるものでもないし、死後万人が必ず悟るということでもないらしい。

それでもこの大勢の狂人たちが闊歩している時代において、コスト・パフォーマンスの極めて怪しい冥想修行に取り組んで悟りを求めよう、ニルヴァーナへの努力をしようという人は、その行動が論理的帰結でないだけに奇特な人である。
それは無価値の価値を求めるものだが、老荘は、無用の用とことさらに呼んでみせた。


今は危機の時代である。その危機感を共有してまともに向き合おうとしている人だけがその嗅覚を持つに違いない。旧約聖書でソドムの町中の人に襲撃されかけた天使たちをかくまったロトのように。


『文明終末期において、
もろもろの悪をなさず
もろもろの善をなす人は、
正真正銘の救世主である。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P65から引用)

無用の用はどこから来たか

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◎それを語るに窮して言い出す

現代人のように、求める価値が無形のところにあり、その極大化した利己心の向かうところは、結局絶望しかないことは内心誰でも知っている。

それでももっと金が欲しいとか、もっと高い地位とか、もっと安定した生活をとか、もっとゲームでの経験値をとか、もっといいブランド品をとか、日々あくせく過ごしているものだ。

そういうことに血眼の人たちに、冥想をしましょう、でも冥想しても金は儲からないし、この世的な栄耀栄華とか逆の道だけど、それでもやりますか、などと正直な説明をした途端に、ほとんどの人は関心を持つまい。それでも冥想に取り組んでみようと言う人は、よほどこの世のことがわかっている人か、物好きな人しかないだろう。

冥想こそ、このイカレタ時代を正気で生き、かつ本来のあらゆる願望が現実化する最終メソッドなのだが、そのメソッドとしての価値は、悟りを最低条件としていることや、自分勝手な願望の実現は保証しないこと、誰もが悟れるわけではないという重要な効能書きによってその人気の大半を喪失する。

従って冥想修行の価値を知悉している者でれば、そのディレンマを踏まえて、上述のようなやや寂しいキャッチフレーズで言い出すしかないものだ。

悪を行わず、善を行う。これが、覚醒した冥想修行者の生きる姿だが、その根拠をこの世的なメリットばかりに関心ある人に説いても時間の無駄である。また荘子に沢山出て来る「無用の用」の用例を文意どおり調べても、ピンとくる説明はないだろう。

真剣な坐忘などの冥想修行により悟りを開いた荘子が、その悟後の生き方や価値観・世界観について、悟っていない人達にそれを語るに窮してやむなく無用の用と称したに違いないのだ。
無用の用は、まさにそのタイミングで言い出されたに違いない。

中学生の頃から荘子は読んでいるが、何十年間ずっと荘子読みの荘子知らずであったわけだ。

出口王仁三郎の統一と無我

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◎大本教の海外展開と日本の海外展開のその後

出口王仁三郎の神様の拝み方など。

神様の拝み方
拝むのはいやだと思う時に神様の前にいやいや出かけて拝むのは、それはごまかし。
心から神様を拝みたいと思うとき拝むのが本当。

統一と無我
人と云うものはいくつにもその魂が分かれて動く。あっちにもこっちにも魂が分かれて活動する。だからいろいろ思い出すのは、その分かれて活動している魂が思わせるので、それをまとめる、統一するのが本当の統一。
思い出す事は良いのだ。忘れた事を思い出し、あっちの事を思い、こっちの事を思い、一時に一切の事を思い出す。それで本当に統一が出来るのだ。それが本当の無我の境。
(以上出典:昭和青年の「出口王仁三郎聖師と出口寿賀麿氏を囲む座談会」)

出口王仁三郎は、クンダリーニ・ヨーガ系なので、ゆらりと坐って調整をするのを統一と呼んでいるようだ。さらに『一時に一切の事を思い出す』を統一の極みとし、アートマンに入る。これを無我の境と言っている。アカシック・レコードにコンタクトしているのである。

『あっちにもこっちにも魂が分かれて活動する。』とは、肉体の活動と同時に微細身が多々活動しているのを言っているのだろうか。それらしいことは、他の覚者が述べることはあるが、誰もが詳述はしていないものだ。

大本教は日本の未来のプロト・タイプ。

大本教は二度大弾圧を受けた。第一次大本事件は決定的な打撃にはならなかった。この事件後に大本教が、世界各国に進出し、中国、南北アメリカ、欧州、モンゴルへと進出したのは、戦後の日本が海外に広く展開したのと平仄を合わせている。

二度目の第二次大本事件の大弾圧の方がひどく、大本教は事実上の禁教となり、教祖の出口王仁三郎の収監は7年に及んだ。

日本が外国から弾圧を受けたのは、まだ1回だけ。

立替は、世界に比べ日本が先行するというが、この近代西欧文明型の物質文明の崩壊は、その後なのだろう。

世界の軍備撤廃の時期-1

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◎全面核戦争

出口王仁三郎は、みろくの世は、世界の軍備撤廃の後に来ると云う。
どうすれば世界は軍備を撤廃するか、それは1945年の日本のように、全世界が敗戦国家になって、それぞれの主要都市が焼け野原になることだろうと想像できる。悲惨なことではあるが、それ以外に今の人類の通念では、世界が軍備撤廃して真の平和の惑星になる道筋はないだろうと思う。

軍事的主要国とは、アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスであって、日本のように核を持たない国家は軍事的主要国とは言えない。要するに潜水艦発射型のICBM保有国だけが開戦後10分以内に相手国の主要都市、主要軍事施設に原水爆を打ち込むことができるのだが、そういう国だけが軍事的主要国と言える。奇しくもこれらは国連安全保障理事会常任理事国であって、この中に戦勝国でない1949年建国の中共が入っているのは、当時米国の意向が相当働いたためなのだろう。

これら5か国が軍備を完全撤廃するには、相互の主要都市が核で壊滅するようなことにならないと、真に5か国が軍拡競争の無意味なことを悟り、それ以上の角逐をとりやめるという判断には立ち到らないだろうと思う。

そういう主要国の自滅的状況とは、とりもなおさず全面核戦争のことである。ここまでは、別に霊能力者でなくとも、ある程度の政治、軍事、歴史の常識があれば想像がつくことである。

大霊能力者出口王仁三郎が「あまり悲惨でよう言われんわ」とそのことを詳述しなかったり、禅で最近悟った人が全面核戦争のビジョンを見てショックを受けたりというのは、人類の意識が今のままだと全面核戦争は「あり」だという傍証である。

全面核戦争は「あり」ということになれば、どの程度現代科学の精華を次の時代に残していくかが大きなテーマとなる。そいう話は、全面核戦争が始まってからでは既に手遅れなので、1970年代からそういうことを話題にしている人たちがいたので、そういうものなのだろうと思う。

全面核戦争になれば、人間の生存率が問題になるが、核軍備の世界では1960年代からoverkillと言って人類全体を何十回何百回全滅させることのできる量の核兵器を保有していることが問題になり、主として米ソ間で核軍縮が行われてきたが、最近の中国は、急速かつ秘密裏の軍事力強化の流れの中で、ほとんど核軍縮交渉に応じないという困った状況になっている。よって、人類全体を1回以上絶滅できる核爆発が起これば、よく言われる世界の人口は三分の一になるなどというのは、相当楽観的見通しだろうというのは容易に想像がつくことである。

全面核戦争後には、残留放射能、低線量被曝の問題がある。これも(敗戦・軍備撤廃に続き)、日本は福島で先行して経験させられている。まず初期段階では体内放射能の排出、そして放射線で破壊された細胞の復活に有効なビタミンCなど、広島・長崎の被曝については米国の意向でほとんど被曝の治療研究ができなかったようだが、不幸中の幸いだが、福島後では各界が挙げて被曝対策を研究しているようだ。

さて最近は、シリア、イラク、イスラム国や朝鮮やウクライナを舞台にアメリカ対ロシア・中国連合が始終対立しているが、こうした軍事大国は、せいぜいギブ・アンド・テークはあるが、基本的に相手に譲るという論理がないだけに、調整がつかなければ最後は「出入り」(ヤクザ用語)になる。


全面核戦争にならないためには、天下万民のうち一定の割合の人々が神に出会うことだと信じて微力を尽くしてきたが、大勢は変わらなかった。ただ当初、破局は西暦2000年前後と見込まれていたのが、2015年2月15日現在まだ起きていないので、この延長された15年の意味合いが吉なのか凶なのかはわからない。

この15年のアディショナル・タイムで、破局を迎える条件である全世界の隅々までに正しい教えが伝わるという条件はまだ満たされていないように見える。万一、この状態のまま破局が起きれば、人類全体の存続も危ういと見るのだろう。

世界の軍備撤廃の時期-2

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◎大地殻変動

核戦争は、人為であり、天変地異ではない。これに対して大地殻変動は天変地異である。

いわゆる世の大峠は、全面核戦争でおしまいではなく、大地殻変動がその後に予見されている。これについては、大本教の予言だけではなく、北欧神話の「海中から、常緑の大地がふたたび浮き上がるのが、わたしには見える。滝はたぎり落ち、鷲は上空を飛び、山に休み魚を狙う。」、聖書ヨハネの黙示録「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た」、などと西欧でも似たようなビジョンになっている。

古伝承、神話に新たな大地の到来が歌われているのは、千年王国到来は、大地殻変動の後であることを示す。

こうなれば、まさしく文明の崩壊であって、世界は衰え、人影はほとんどなくなり、耕す者のない広大な田畑が残るようなこと(ノストラダムス/セザールへの手紙)になる。そういう荒廃した世界であっても、「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」(ヨハネの黙示録)と言い得るのは、そこに生きる人間が霊的に進化した人間だからである。

そうした時代の人間は、自分が傷つけられようが、殺されようが、自分の知ったことではないというような自意識に生きる者であって、これこそ神知る者の自意識であることを忘れてはいけない。もはや人は金を第一として生きるのではない。

終末と千年王国のことでは、まず地球と世界の変化や人類の大量死のことが言われるが、その原因となった自意識の問題こそ本丸である。

無用の用、無価値の価値に直観的に気が付いて、冥想を習慣とする人が何人出て来るかが、人類進化の必要十分条件である。

わびという無価値の価値

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◎集めるということ棄てるということ

この時代の人の心性として、何かと物を集めたがるという事がある。始終ものを集めていないと不安なのである。物を集める、経験値を集める、ブランド品を集める、掘り出し物を集める、骨董を集める、金を集める、もうけを集める、気晴らしを集めるというのは「有るということの不安」から来たる行為である。

これに対し、わびというのは、ないことに安住できることであって、有るということの不安から解放されることである。すべての有ることを棄て去ったところに新たなエネルギーが生まれる。不思議なことに、何もないところからあらゆるものが生まれる。これは世間の通念から言えば論理の飛躍であって、なかなか理解を得られない。が、そういうものなのだと思う。

さていままで物を集め物にこだわった身から、全てを棄てるというのは、一抹の寂しさがあるもの。このある種の感傷的な気分もわびの一側面。

しかしわびには、すべてを棄てたが故の自由自在があり、何もかもない所から来る絶対の安らかさや、落ち着きがある。だからこそ「わび」が根元にあって作り出された挙措、所作、作法、工芸品、食事、ファッション、建築などの底流には、無がとうとうと流れている。
わびという無価値の価値はここにある。

無価値の価値の趣向

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◎わび数寄と一隻眼

無価値の価値とはいかにもわかりにくいが、それをわかりやすく時代のカルチャーにまで高めた先人がいる。それが千利休。戦国時代は、殺人、略奪は日常茶飯事であって、諸行無常を実感として持って生きた人がほとんどであった時代。彼らの大半が虚無を見ていた時代。そこに貴賤を問わず茶の湯という形で、無価値の価値を取り出して見せた利休は、夢窓国師と並んで一つの日本文化史上の天才と言える。

千利休が藪内剣仲に宛てた「おもしろの文」に『有る人のあるにまかする茶湯より なくてぞ出す侘びはおもしろ』とあるが、これぞ無なるところから出す趣向である。『茶の湯とは只茶をわかし茶を立て飲むばかりなる本を知るべし』という歌は同じことを歌っているが、その趣向の方向性は明確にはなっていない。

ところが、この趣向の傾向を利休は侘び好きと称し、具体的に出して見せる。それはこのようなものである。

身分が高いことよりも下賤であること。
財産やブランド品を沢山持っていることよりも貧乏でそうしたものを持たないこと。
華美豪奢よりも地味質素なこと。優美、豊満、複雑、くどさ、典雅、均整、明澄、崇高、繊細よりも、艶(つや)けし、色消し、不粋、古色、寂び、破れ、ひずみ、稚拙、簡素、幽暗、静謐、無聖、奇数。

おしゃべり上手なことよりも実直朴訥なこと。
目立つことよりも控えめに。

こうした好みは日本人の生活と文化の隅々に今でも生きている部分があった。

これらを全体として見ると、外的な価値に惑わされずに内的な価値の発露をありのままの姿に見るというのが徹底している。ただその好みである「わび数寄」を生きるには、単にファッションやしぐさや持ち物だけ真似ては実がなく、一隻眼を持たねばならない。いまや万人が一隻眼を持つべく冥想自体を流行にせねばならない時代に至った。



仲代達矢の空襲体験

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◎地獄の現実化

2015年2月18日の日経ビジネスオンラインに仲代達也の空襲体験が載っていた。彼は1932年生まれで、家は極貧の上に父親は結核を長く患い1943年彼が11歳の頃に亡くなった。残された母と3人兄弟は、東京青山や千歳烏山などを転々と暮らしていた。

昭和20年4月中板橋にあった都立北豊島工高に千歳烏山の自宅から新宿経由で通うことになったが、新宿を通ると逃げようとした人が焼けただれて真っ黒になっているのを横目に見ながら通学するなど、当時の新宿辺は凄惨なものだったそうだ。

ある時渋谷で空襲に出会い、彼は近所の女の子の手を引っ張りながら必死で逃げた。必死で手を引っ張ったのにいやに軽いなと気づいて振り返ると引いた手の先に体がない。焼夷弾がその子の頭にぶつかったんだけど体がなくなったことに気づかず引っ張って逃げていた。

彼は当時のことを、食う米もないのに誰も助けてくれなくて最低の生活をしていて、空襲に遭って生きていること自体が不思議な、本当に気が狂いそうな少年時代だったという。「今日も一日生き残ったんだ」ってね。

若くしてこういう体験をするとトラウマになるのは勿論のことだが、こういう場面に出会うと、発狂するか、自殺するか、悟るか、自閉的に内部に退行するかのいずれかというようなことになる。仲代達矢はそのスピリチュアル・エマージェンシーを正気で乗り切ったのだろう。天国と地獄の結婚は、そういう人達の先にあるというが、簡単ではない。

こういうのは、心霊宗教でいうところの地獄の現実化だが、現代ですら地獄的想念の人が多いと言われているのに、この先こういう事態が再現しないことを祈りたい。現代ですら正気で生きるのは大変なのだが。

古神道の伝承

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◎天皇、伊勢神宮、出口ナオ、艮の金神

最近天皇家の神道祭祀を論ずるブログや雑誌記事も多い。祭祀の伝承ということで、神主がいなくなるのは、宮中祭祀の連続という点でどうかというようなこと。しかしある宗派の最も大事な部分の継承とは、とりもなおさず、悟りという体験とは言えない体験、つまり見仏、見神体験の伝承ということになるのではないかと思う。

かの伊勢神宮も実際に訪問すれば、その神域の威容に打たれてつい何千年もまえからこうだったみたいな錯覚を起こしそうになるのだが、15世紀から16世紀にかけては20年おきの遷宮もままならず、屋根の雨漏りの修繕もできず、ご神体も雨露に濡れそぼつほどの、伊勢神宮存亡の危機の時代が百二十余年ばかりあった。要するに宗派の継承というのは、神主や教祖の連続による祭儀の伝承という側面もあるのだろうが、宗教である以上は、大神・仏とのコンタクトがあくまで本質ということになろう。

伊勢神宮でいえば、この時代誰がそれを伝承してきたかといえば、たとえば五十鈴川のほとりに住む名も知れぬ洗濯女が、その覚醒を保持して伝えていたというようなことは大いにありそうなことだと思う。

艮の金神とは鬼門北東の主神であって、明治になって文盲の出口ナオがわざわざ言い出したというのは、時代のバランスをとるためにそれを言い出す必要があったのであろう。いわば出口ナオは5世紀前なら人知れず終わった無名の覚者が、近代的自我の危機を迎える明治では、表に出てきて活躍する必要があったということだろう。これも一種の古神道の伝統擁護キャンペーンという動きだったのではないか。

のちに、マントラ「ウシトラノコンジン」と唱え続けた後の生長の家の教祖谷口雅春が、自分に憑依していた狐の霊が発動してしまったなどというのは、あまり時代の危機ということとは関係ないエピソードであると思う。



超作=天命・天意を生きる

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◎果が生ずる毎に果を求め、果を保持しようとする自分を捨てる

覚者は天命・天意を生きるものだが、そういう行き方のまねびが、クンダリーニ・ヨーギ本山博の超作という考え方である。

昨今のモバゲー依存、スマホゲーム依存の心性というのは、まさに結果をしつこく追い求めていく傾向を利用したものであるが、単にちょっと努力すれば達成できるような目標を与えれば、人はその目標達成に向かいがちだということではなくて、実はそれは永遠にカルマの無限地獄からはい出ることのできない、恐怖の第一歩であることが以下の文でよくわかる。

悪因縁から解脱するために何かの行をやるということは、各人の性質、性向に応じてあるものだと思うが、まずは、自分にとっての得やメリットばかり追い求めることを自明とし過ぎたこの考え方を改めないと、何も変わりはしないということがわかる。

『二 超作

一、超作とは何か


ある行為をすると、それを原因として結果が生ずる。その結果を求めて行為をするのが、普通の人間の行為である。また、行為そのものも、自分がその行為をしている、つまり自分が行為の主体であると思って行為をする。

このような行為は、それを行なえば行なうほど、自分という存在、他と違う自分という人間存在をつくり、保持することになる。

行為の結果を求めて行為をするとき、常に行為の果を求め、それを得よう、保持しようとする自分がある。このような、自分がする行為、その果を求める自分がある行為は、行為をすればするほど、行為をする自分と、果を求め、果を保持しようとする自分が強化保持される。

このような自分こそ、行為と、それを原因とする果という因果関係、カルマの法則の真只中で働き、カルマの世界におちた自分である。

これに反し、行為するとき、「自分がするのでなく、自分が生きて行為できるのは、カルマをこえた神の力によって生きているのであり、行為できるのだ。
一切のものは、これらすべてを支え、生かし、動かし、宇宙を経綸している神の働きによって、互いに作用し合ってその存在を保っているのだ」という自覚の下に、「自分が行為をするのではなく、神が行為をさせてくださるのだから、自分は行為を一生けんめいするだけでよい。行為の結果も、自分が生ぜしめるのでなく、神が生ぜしめるのであるから、その結果に執われず、どのような結果が生じようと、すなわち自分にとって悪い結果であろうと、よい結果であろうと、同様に神の恵みとして受け入れよう」という心で行為をすると、行為をする毎に、行為をする自分を捨てることができる。果が生ずる毎に果を求め、果を保持しようとする自分を捨てることができる。これが超作である。

超作によって、カルマの因果の法則の下で働く自分を捨て、人間のカルマをこえた世界に飛躍する準備が着々と進むことになる。
超作は、口で言うのは易しい。行なうことは難しい。しかし、一日に一つのことでもいいから、超作をするように心掛けたら、必ず、カルマの内であくせくと働く人間を超えることができる。』
(カルマと再生-生と死の謎を解く/本山博/宗教心理出版P87――89から引用)

覚者は、全ての行為が、神がその行為をさせていただくのであるが、これに対して初心の修行者は、一日のうちに一個でも結果を求め保持する気持ちを棄てて行為をしなさいということ。

袁了凡が自分というものを棄てて善行を積み悪行をしないという行を行ったのも、最初に結果を求める気持ちを棄て去ったから純粋な果実を得た。超作とは、気持ちの持ちようから入るが、それに熟練すれば、いつかはパーフェクトにできるということではなくて、別の何かが起きて来るのだろうと思う。こうした行を迂遠と考えずに純朴に、生真面目に取り組むことがまず大切なのだと思う。

オウム真理教特番〔オウム20年目の真実~暴走の原点と幻の核武装計画〕

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◎松明に火がついたけれど何も変わっちゃいない。

夜、テレ朝で、オウム真理教特番〔オウム20年目の真実~暴走の原点と幻の核武装計画〕。あれから20年たったが、いわゆるまとまな宗教が大きく育つことはなかった。当時は、事件後に、既成組織宗教が実質宗教していないことの反省や出版界のバブル景気もあってまじめで善い書籍の出版が相次いだというような動きも確かにあった。

しかしオウムが出てきたことの根本は、わが自分勝手な欲望を実現する現世利益を追及する事を是とする、宗教にはあるまじき宗教が世の中で隆盛を極めていることである。宗教組織が現世利益を認めるのは宗教の自殺行為。自分というものを徐々に希薄にしていこうという方向性が本来のまともな宗教の方向性なのだが、この基本中の基本が、日本にあってはほとんどないがしろにされている。

オウムにあっては、それは超能力の追及、神秘体験の追及という形で現れたが、その方向性は彼らの思惑とは異なり、実は我欲の延長であって、神・仏の側を向いていたわけではない。金がもうかる宗教、生活水準が向上する宗教、願望が実現する宗教は、基層はあまり豊でない層が支えていたのだと思うが、1億総中流だった生活水準はどんどん低下し、1億総下流になろうとしているから、こうした感心しない宗教がまたどんどん出てくる可能性はむしろ広がっていると思う。

今やその日本民族劣化策の主戦場は、宗教破壊についてはほぼ完了し、いまやあらゆる側面での依存症形成に移ってきている。その依存症とは、買い物依存症、ブランド依存症、インターネット・ゲーム依存症、スマホ依存症、パチンコなどのギャンブル依存症、薬物依存症、ネット・ポルノ依存症、アルコール依存症などなど日常のちょっとした『欲しい』気持ちを捉え、様々なジャンクになるように品揃えされている。こうして人は自分にとって何が一番大切なことなのかを感じたり考えたりする時間を失っていき、気が付いたら亡国になっていたりするのではないだろうか。

さて春節は新年だが、春節に巨大な松明(トーチ)を燃やして、新たな局面の始まりを知らせた。youtubeを見ると5フロア以上に延焼している。1室50百万円以上のマンションらしいが、火事が出た物件はこれから難しいでしょうね。
2015年2月21日アラブ首長国連邦(UAE)のドバイで21日、高さ約330メートル、79階建ての超高層マンションで火災が発生した。上層階で延焼が広がり、焼けた窓ガラスや建材などがビルから周囲の路上に落下。マンション住民を含め、周辺地帯に住む数千人が避難した。このビルは、住居用マンションとしては最も高いビル「ザ・トーチ」。2011年に建設され、約700戸の住居のほか、店舗なども併設されている。

ドバイの松明(トーチ)に火がついたけれど、生活は平均的には低下した一方、人々の本質は何も変わっちゃいない。

覚者の時間感覚

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◎真正の道人は、一念、一念、心に間断がない

よく禅では、間髪を入れないのがよいなどという。
たとえばこんなの。

臨済が徳山のそばに控えて立っていた時、徳山が『今日は疲れた』とつぶやいた。
これを聞いて臨済は、「このおやじが、寝言を言って何になろうか」と言ったところ、
徳山はすぐさま棒で臨済を打った。
これに対し臨済は、いきなり徳山の坐っていた椅子をひっくり返した。
そこで徳山は、即座に問答をやめた。

これを評して、虎が爪を隠しているようなビビッドな臨済の瞬発力(禅機)を感じるなどと書いている。

意図的な即座の返答、間を入れない反応は、陸上100M競争のスタート練習みたいなもので、なぜそんなことが重視されているのかわからなかった。

臨済録の別の箇所に、ある弟子が真仏、真法、真道とは何かと、臨済に質問しているところがある。その回答に「真正の道人は、一念、一念、心に間断がない」(念念に心間断せず)という部分がある。

間断なければ、自ずと禅問答をしかけられれば、間髪を入れない反応となる。大悟した禅者は、仕切り線で向かい合った相撲力士のように、また百メートル走スタ-トラインのランナーのように、全神経を研ぎ澄まして入室参禅での弟子の質問を待つというのは、わかる。しかし平常時の構えもそれでは、心身が緊張でもつまい。

これに対して平常時の構えこそ、熟睡中の夢を見ない状態であって、一念一念、心に間断がない状態が基底にあるのだと思う。
誤解を恐れずに言えば、覚者の時間の流れを感じる感覚は常人のそれの数倍細かく刻まれているという印象がある。

ソロモンが人工宗教を嗤う

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◎いくら組織を引き締めても偽物は本物にならない

ソロモンの箴言から。
身近な人工宗教といえば国家神道だが、国家神道の反省も教訓もうやむやに戦後70年とはなりにけり。
更に最も身近な人工宗教、偶像崇拝はブランド信仰であるが、これぞ現代の最強の人工宗教であって、人々は惜しげもなく金と関心をつぎ込む。

『一五 
早死した子のために心を痛めた父が、急にその子を奪われて像をつくり、もう死んだ者を今や神として崇める。こうしてその家の子郎党のために、神秘な儀式を伝えるにいたるのである。

一六 
それから時が経過すると、この不虔な習慣は強制され、法として遵守されるようになる。
かくて支配者の命によって、刻まれた物は礼拝されるにいたる。

一七
遠くに住んでいるために、限のあたり拝むことの出来ない人々は
その支配者を遠くから視像化し、尊敬する王のあらわな像を造り、その所にいない者をいるかのごとく熱心にへつらい拝むようにする。

一八
工芸家の名誉心は王を知らぬ者をも、かりたて強度の神的崇拝にいたらせる。

一九
彼は権力者に気に入ろうと思って、技術の力でその像を実物よりも
美しいものに無理にしあげるからである。

二〇
衆愚は手仕事の美しさに心を奪われ
少し前まで人として尊んだに過ぎぬ者を、今や礼拝の的と考えるようになる。

二一
これは人の生涯にとってわなとなった。というのは人々は災厄や暴政により奴隷にされ、人間の共有し得ないみ名を、石や木に附与したからである。

二二
それから神の知識につき迷うだけで足りず
無知による大きな戦いの中に生きつつそれらの災いの状態を平和と呼ぶ。』
(聖書外典偽典2 教文館/P50-51から引用)

権力と権威の下に、神仏知らぬ人工宗教が産み出され、信者から金を巻き上げ集会を繰り返すことにより組織が引き締められる。それをいくら強化しても偽宗教が本物になるわけではない。

2000年前も現代も人心を騙すのは、赤子の手をひねるように簡単であるがゆえに、騙すほうの罪は大きい。

平和、平和と唱えているうちに亡国になった国

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◎亡国のビジョンは頻発しているか

平和、平和と唱えているうち亡国になった国があった。
それは、チベットのことである。

チベットは、七世紀に唐から文成公主を嫁入りさせた頃が最大の軍事大国であったが、聖王統治も次第に国力を弱体化させ、17世紀清朝成立後は、清朝に服属したものの、清朝はチベット密教尊崇国家であるがゆえにあからさまなチベット侵略に出ることはなかった。

18世紀になる頃には、チベットの内紛を平定するために、テレビドラマ『宮廷の諍い女』でイジメ役として名を馳せた華妃の兄年羮尭が青海に軍を進め乱を治めた。

しかし清朝のチベット支配は、徐々に力を失い、20世紀に入ると、ロシアと英国の侵略の脅威に挟み撃ちとなり、ヤングハズバンド率いる英領インド軍のチベット侵攻と虐殺事件などで、チベットはますますその国力を衰退させていった。

1905年、四川総督の趙爾豊は四川軍を率いてチベットに侵攻、1910年、ラサに入城した。ダライ・ラマ13世はインドへ逃れたが、1912年辛亥革命で清朝が滅亡するとラサに戻った。

以後英国、ソ連、中国の角逐の中で、1950年までチベットは自治国として維持されていく。中共は、1950年から東チベットを侵略開始し、ダライ・ラマが1959年インドに亡命して、ここに事実上チベットは滅亡した。

チベット密教の聖職者が、中国人民解放軍によってチベットが占領されるビジョンを見た話は、20世紀のチベット物を読むと至るところに出て来る(日本でもそういう話をよく聞くようになったら危ないということでしょう)。ダライラマは、1959年の自身のラサ脱出までは、中共といえども話し合えばわかるなどと考えており、結果から見て、見通しが甘かったという批判はあるかもしれないが、聖王というものはそのように動くものだろう。覇王ではないのだから。

軍事的に見れば、チベットは、結局自衛に足る軍備を18世紀以降持たなかったために、以後国際政治のリアリズムに翻弄され、結局亡国となった。

日本は核の傘を借りて、通常兵器部分だけで、「自衛」軍備としている。ところが軍備は国を守る力の半分に過ぎず、残り半分は情報(インテリジェンス)である。日本には、対外情報組織はないに等しく、情報サポートのない軍備は、子供が立派な真剣を振り回しているようなもので、ものの役にはたたない。ミッドウェーに向かう大日本帝国海軍は、暗号を解読されたことで、壊滅的打撃を受けたが、それはインテリジェンスの差であった。きちんとした在外情報機関があった戦前であってすらインテリジェンスで敗北したのに、目も耳も効かない今の日本はそれよりも更に危ういのではないか。

憲法9条に平和を謳っているからずっと平和でいられると思い込んでいる国は、中共侵攻前に「話せば中共もわかってくれる」と唱えていたダライラマのチベットにも似ている。そういうのもマインド・コントロールと呼ぶのではないか。

国が危ないのは、原発や放射能や経済や政治もさることながら、人心が危ないことを云う。


神々と人間とのすべての束縛を断ち切る

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◎霊がかりでなく現世利益でもない

釈迦の「感興の言葉」から
『愚人は束縛によって迷っているが、賢者は束縛を断ち切る。聡明な人は束縛を取り除いて―――ここに神々と人間とのすべての束縛を断ち切って、あらゆる苦しみから解脱する』
(ブッダの真理の言葉 感興の言葉/岩波文庫/P265から引用)

この神々は、諸神霊の意味。高級神霊からのサポートを重視しない。つまり心霊的な宗教ではないことの宣言である。さらに人間とのすべての束縛を断ち切って、社会性のないところに至る。これにて現世利益を全く問題にしないところが解脱であるとする。
そこにしか苦しみのない世界はないと説いている。


宗教の秘奥の二つの伝承方法

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◎組織宗教とマンツーマン伝承

宗教の秘奥には二つの伝承方法があるように思う。一つは組織宗教によるもの。もうひとつはマンツーマンあるいは、極めて少数のグループによるもの。

組織宗教は、必ず儀式と冥想技法としばしば生活の細部に至る細目まで規定し、これを何百年、何千年にもわたり継承しようとするものだ。カトリック、曹洞禅、臨済禅、真言密教、天台密教など儀軌や生活作法までこまごまと規定しているものが残されている。曹洞禅では、食事の仕方、食べる順序までこまごまと規定されている。

そうした決まり事を何千何万の悟っていない修行者や檀家、支援者が厳粛に執り行うことを、長年にわたって遵守、護持していく。

何のためか?

その冥想修行のスタイル、儀軌の手順、生活の決め事にぴったり合う覚者の到来を何百年でも何千年でも待ちうけるためである。
勿論そうしたものを護持させられている側に、そういう真相を出したら、大多数の悟っていない信者は馬鹿馬鹿しくてやってられなくなるので、組織宗教主宰者側からはそんなことは言わない。
またそういう組織宗教でも覚者が全く出ないということはなくて、突然変異的に出ることはあるだろうが、それは砂漠に花が咲くが如く極めて稀だろう。

ただし組織宗教が覚者を効率的に?打ち出すという点では問題かもしれないが、その儀軌、規矩、戒律、修行カリキュラムによって何を目指すべきなのかを知ることができるということは間違いない。


もうひとつはマンツーマンあるいは、極めて少数のグループによる護持である。これは道教のエッセンスの伝承を見るとそうとしか思えないことから、気づいたもの。大周天による伝承は、慧命経と金仙証論著者である清代の柳華陽(1736~)が直近で名の知られている人物だが、中国煉丹の正統を継ぐ人物。彼が誰から道統を継いだかというと、伍守陽没後80年の後、伍守陽から継いだとする。

また道教のもう一人のスーパースター呂洞賓は、唐代、山西省蒲坂県永楽鎮の人で、海州刺史呂譲の子と伝えられている。幼少より聡明で、科挙に行く途中に、仙人の鍾離権に出会い、修行の道に誘われたが、出世の夢を捨てられず断ったものの、後に弟子入りして道を得た。ところが鍾離権は、漢代の人物であり、呂洞賓とは4,5百年の差があり、肉体同士での伝承ではない。

こうした肉体のコンタクトでない接触でもって何千年も伝統を護持できていることは、常識外れだが、そういうものでもあると思う。

またチベット密教では、異次元に埋蔵された経典があって、時にそれを異次元から発掘されるものがありこれを埋蔵経と称する。また大日経を説いたのは、報身の釈迦(肉体ではなく、霊体の釈迦)であることから、先生(グル)は、肉体を持っているとは限らない。

これらはたまたまクンダリーニ・ヨーガ系ばかりだが、覚者の方から一般人を見れば、目がありそうな人物はたちどころにわかるものだと思う。アストラル体でのコンタクトという手段をとるにはその人物の感受性と魂の成熟は避けて通れないものだろうと想像する。

アンジェリカ

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◎腐らない食物と飲料でできた肉体

アンジェリカは西洋トウキともよばれ、中欧で知られていたが、1348~49年の最初のペスト大流行の時に、さる修道僧に大天使ラファエロが現れ、「黒い死」(ペスト)から身を守るものとして、人間にアンジェリカを与えたという。よってドイツでは『ペスト根』という別名もある。

やがてアンジェリカは修道院で栽培されるハーブとなり、今ではポーランド、オランダ、ドイツで栽培されている。

治療で使用されるのは、アンジェリカの根の部分。アマゾンで検索するとハーブティーの他に根っこみたいなのが確かに出て来る。

効能は刺激性の胃痛、消化不良、食欲不振の緩和。民間療法では咳止めとして使われる。

薬草占星術では、獅子座の太陽が支配星。対応身体部分は心臓、胃、子宮とその効能とほぼ一致している。

アンジェリカは古いペストの時代の救世主だった。

夏場に朝作ったお弁当は、昼には腐敗しかけているものだ。これに対し、コンビニ弁当とかスーパーで売っているメーカーもののパンは何日もカビが生えないとか、我々は結構すごいものを食べている。

水だって、塩素は3日くらいで消え、雑菌が繁殖するので、もともとは腐るものだが、ペットボトルに入って密封されているせいか、添加物たっぷりなせいか何か月も腐らない水もガンガン飲んでいる。

こうした微妙珍妙といわざるを得ない食べ物飲み物で維持されているこの粗雑な肉体に対しても、ナチュラル・ハーブの精妙な効果が現れ得る時代なのだろうか。

現代は言霊の精妙なバイブレーションが効かない時代と言われて久しい。こうした食物、飲料の点でも行くところまで行っているのだと思う。

ポスト・アトランティスの文明の興廃

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◎この1万2千年と3千年

歴史学者アーノルド・トインビーは、文明の興廃は宗教の興廃であり、ある文明はその根幹である宗教とともに繁栄し、その宗教と共に滅亡すると説いた。

1万2千年前のアトランティス滅亡時、エメラルド・タブレットという文書が伝承されているが、短すぎてわかる人だけにかわからないしろものになっている。また古代アトランティスの知識を伝える機関としてアレクサンドリアの図書館があったことが、プラトンの文書にでてくるが、その図書館も2千年ほど前には焼亡した。

しかし、どうみてもポスト・アトランティス1万2千年を貫く宗教というものは存在していなかった。ここ3千年あるいは3千5百年ほどについては、釈迦教といういうべき仏教が2千5百年、そしてキリスト教が2千年頑張っている。

それでは、仏教、キリスト教以前の宗教はどうなのかといえば、たとえば旧約聖書に出て来るメルキゼデクの宗教は有力だったみたいだが、その概要はわからない。またインドの宗教についていえば、釈迦以前は、マハー・バーラタで古い宗教のスタイルを知ることができるが、全訳もないし、その一部分としてバガバッド・ギータはあるが、どこからどこまでが歴史的記載なのかはさっぱりわからない。要するに、3千年以前のことはよくわからない。

ただキリスト教と仏教から類推するに、世界宗教の命脈はせいぜいが2~3千年であって、それに随伴して栄えてきた物質文明は、どういうわけかその頃になると自壊するものであるようだ。文明滅亡は、ノストラダムスや出口王仁三郎によれば、大洪水によるものが過去多かったとする。出口王仁三郎は今度は七度目の大洪水があるとする。

このような2~3千年タームが正しいとすれば、過去一万2千年の間には、周期2~3千年の世界宗教が何回か興亡し、それは物質文明を伴い興亡を繰り返した。その証拠は、オーパーツや古文書によるのだろうが、大洪水か核戦争かの文明滅亡時には、最も繁栄した地域はなぜだか真っ先に灰塵に帰したり洪水でやられたりするものであって、残る場所は文化果つる僻遠の地で、生き残る人は無学文盲の人ばかりであるケースが多いなどというのは大いにありそうなことである。よって前文明の古文書はほとんど残っておらず、オーパーツが単独で残っていてもその文明連続性の説明は誰もできないということになる。

そもそも悟りを扱う宗教とは、無用の用、無価値の価値を説くのに対し、物質文明の方は機能性功利性が基本原理であって、そもそも相容れない。また悟りの説明を、両者にとって自明なことが数多い現代文明人に説明するのだって、そう単純に一言でというわけにはいかない。

文明は2~3千年でぶつ切りだとしても、ここに、ポスト・アトランティス1万2千年を貫く古伝承がある。それは、ほとんどがこの時代、つまりアトランティス滅亡後、次の文明も滅亡し、至福千年、千年王国が到来することを明かしている内容である。
それが北欧神話であり、ギリシア神話であり、古事記の仲哀天皇の帰神の段ということになるだろう。

覚者の生きる姿-1

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◎惟神(かんながら)の道

覚者の生きる姿とは、悪い事をしない、善いことをする、だとはいえ、それだけではわかりにくい人もいる。善人は、一厘であって、千人に一人、覚者はまだ少なく、また往々にして覚者は自分のやっていることを隠すものだからである。

以下の文は、出口王仁三郎が昭和10年の逮捕収監直前に書き下ろした『惟神(かんながら)の道』の一章『神人の心』であって、これは数少ない覚者の生きる姿を活写したものである。

『神人の心

真心(まごころ)とは、天地の先祖の大神の大精神の合致したる清浄心である。至仁至愛にして万事に心を配り意を注ぎ、善事に会うも凶事に遇うも、大山の泰然として動かざるが如く、びくつかず、あせらず、物質欲にあわく、心神を安静に保ち、何ごとも天意を以って本となし、人と争わず、能く耐え忍び、宇宙万有一切を我が身魂(しんこん)の所有となし、春夏秋冬昼夜、風雨雷電霜雪、いずれも言霊の御稜威(みいず)に服従するまでに到らば、始めて神心(かみごころ)を発揚し得たのである。』
(続く)

『何ごとも天意を以って本となし』とあり、覚者は天意天命を生きるもの。

『宇宙万有一切を我が身魂(しんこん)の所有となし』とは、この一なるもの=アートマンを自家薬篭中のものとするということである。

『春夏秋冬昼夜、風雨雷電霜雪、いずれも言霊の御稜威(みいず)に服従する』とは、覚者の言霊は大神の大精神に合致しないことは何一つないからそのバイブレーション=言霊でもってこの世あの世の一切万象を昼夜いつでも調整しているものだということ。覚者は睡眠中でも眠らない。

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