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純粋冥想と宗派なき冥想

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◎ただ、見守り、聞き守り、生きていく


宗教活動が、教団維持存続の経済活動や、教祖や大組織に帰依することで生まれる連帯感、安心感、熱狂という味付けが本当は実態のないものである気がついた人は、自分ひとりになって坐るという冥想修行に立ち返っていく。

イデオロギーや教義を離れた宗教は、最後はそのエッセンスたる純粋冥想への細道を残すことになる。

純粋冥想こそは、宗派の別を越えた冥想であって、国籍の違い、言語の違い、性別の違い、年齢の違い、貧富の違いを超えた冥想である。

世界宗教というのは、世界的にメジャーな宗教ということであって、宗派の別は歴然と残した宗教であって、釈迦教だったり、イエス・キリスト教だったり、マホメット教などがある。ここでは、宗派のない冥想のことを言う。

宗派のない冥想とは、目新しい概念ではなく、神仏習合の本地垂迹説や、出口王仁三郎のいう万教同根もそうした流れの一つである。

純粋冥想とは、そのプロセスやカリキュラムの概観への理解と坐相によって成ると考えているが、ダンテス・ダイジは、それとはまったく異なる純粋冥想像を呈示している。

彼のアメジスト・タブレット・プロローグの序言から
『あらゆる冥想も、
あらゆるセラピー、ムーヴメントも、
あらゆる宗教、思想。イデオロギーも、
おおよそ、
あらゆる人間性の営為が、人間性の根源苦、
一切万象の根本無明に対して、
いかなる効能もないことを見抜く時、

私たちは初めて、
人間苦そのもの、根本無明そのもの、
私たちにとっての、
全現実そのものを、
ただ、
見守り、聞き守り、生きていく

これが純粋冥想の発心修行である。
純粋冥想には、初めがあって終わりがない。
そして
純粋冥想には、初めも終わりもない、
全体者の多様多元の戯れなるがゆえに。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P、から引用)

冥想や宗教修行ですら人間性の空しくはかない悪あがきにすぎないが、その無益さを見切ったときに純粋冥想が起こる。

現代人は、しばしば『居られない』。だから、この『ただ、見守り、聞き守り、生きていく』というのが特別なことに感じたり、きつかったりする。それをただ、見守り、聞き守り、生きていく。

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