◎不安定な時代と腐敗した役人向けの文章
日本書紀に全文引用されたのが初出の聖徳太子十七条憲法。これは官僚の心得たる部分が多いが、そうではなくいわゆる時間のない世界から書き出された部分も少々ある。
第一条『一に曰わく、和を以って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。
ここをもって、あるいは君父に順(したが)わず、また隣里に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。』
ここでは、まず上下の一体感を説く。奇しくも中国で胡錦濤政権時代に高速鉄道『和諧』号が走ったのは、中国でも上下の和諧が課題だった。
上下がお互いの神性をリスペクトすれば、何事か成らざらんだ。
第六条
『六に曰わく、悪を懲(こ)らし善を勧むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。
それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆す利器たり、人民を絶つ鋒剣たり。また佞(かたま)しく媚ぶる者は、上に対しては則ち好んで下の過ちを説き、下に逢いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それかくの如きの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。』
これは、勧善懲悪。人間にあっては自分の善は隠し、他人の善は褒める。これが最近では自分の善も自分で誉めよというとんでもない風潮になってきている。
当時も官僚、政治家に賄賂の風習がはびこり、金持ちや有力者のための政治であった。当時の役人は朝は遅く出仕しさっさと帰宅していた。
国司、国造は勝手に税金を取り立てており、現代中国と変わらない国情だった。
大乱の根は、そうしたところにあるのはいつの時代も変わらない。大帝国は辺境から崩れるとは、最下層の人々から政権が崩れていくのと同義。
第十五条
『十五に曰わく、私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨みあり、憾(うら)みあれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うら)み起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云わく、上下和諧せよ。それまたこの情(こころ)なるか。』
私心をすてて公務にむかうのは、臣の道である。およそ人に私心があるときは不満があるもの。不満があれば物事は進まない。だから上下上下和諧しなさいとは唐突である。一族、ファミリーの利権を離れて私心のない業務遂行する人は少なかったのだろう。
全体として見ると、仏教的発想はあまりなく、儒教的発想が中心ではある。スピリチュアルな永遠の世界から打ち出された条々などという文章ではない。
法律がきちんと整っていない時代には、勧善懲悪して見せて、やみくもに民と役人の忠誠心を高めなければ、国家の求心力が保てなかったのだろう。
聖徳太子の時代はそれほどに不安定な時代だったのだろう。
上下和諧は、強制するものではなく、自然に起こるべきものだが、こうした規則を打ち出して、修行環境、生活環境を整えるというステップはあるものだ。
日本書紀に全文引用されたのが初出の聖徳太子十七条憲法。これは官僚の心得たる部分が多いが、そうではなくいわゆる時間のない世界から書き出された部分も少々ある。
第一条『一に曰わく、和を以って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。
ここをもって、あるいは君父に順(したが)わず、また隣里に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。』
ここでは、まず上下の一体感を説く。奇しくも中国で胡錦濤政権時代に高速鉄道『和諧』号が走ったのは、中国でも上下の和諧が課題だった。
上下がお互いの神性をリスペクトすれば、何事か成らざらんだ。
第六条
『六に曰わく、悪を懲(こ)らし善を勧むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。
それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆す利器たり、人民を絶つ鋒剣たり。また佞(かたま)しく媚ぶる者は、上に対しては則ち好んで下の過ちを説き、下に逢いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それかくの如きの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。』
これは、勧善懲悪。人間にあっては自分の善は隠し、他人の善は褒める。これが最近では自分の善も自分で誉めよというとんでもない風潮になってきている。
当時も官僚、政治家に賄賂の風習がはびこり、金持ちや有力者のための政治であった。当時の役人は朝は遅く出仕しさっさと帰宅していた。
国司、国造は勝手に税金を取り立てており、現代中国と変わらない国情だった。
大乱の根は、そうしたところにあるのはいつの時代も変わらない。大帝国は辺境から崩れるとは、最下層の人々から政権が崩れていくのと同義。
第十五条
『十五に曰わく、私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨みあり、憾(うら)みあれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うら)み起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云わく、上下和諧せよ。それまたこの情(こころ)なるか。』
私心をすてて公務にむかうのは、臣の道である。およそ人に私心があるときは不満があるもの。不満があれば物事は進まない。だから上下上下和諧しなさいとは唐突である。一族、ファミリーの利権を離れて私心のない業務遂行する人は少なかったのだろう。
全体として見ると、仏教的発想はあまりなく、儒教的発想が中心ではある。スピリチュアルな永遠の世界から打ち出された条々などという文章ではない。
法律がきちんと整っていない時代には、勧善懲悪して見せて、やみくもに民と役人の忠誠心を高めなければ、国家の求心力が保てなかったのだろう。
聖徳太子の時代はそれほどに不安定な時代だったのだろう。
上下和諧は、強制するものではなく、自然に起こるべきものだが、こうした規則を打ち出して、修行環境、生活環境を整えるというステップはあるものだ。