◎念仏三昧の領解
本当に念仏を繰り返していけば、念仏三昧に入り、すべてが南無阿弥陀仏の世界に入るのだろうか。
蓮如の重視していた安心決定鈔から
『念仏三昧において、信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもうべきなり。』
ここは、これから信心決定という悟りに入ろうとする人は、身も心も南無阿弥陀仏だという観想法的な入り方をするとする。
更に
『われらが道心、二法、三業、四威儀すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿弥陀仏なり。されば、いずるいき、いるいきも、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿弥陀仏の体なり。』
観念、想念の心の動きが南無阿弥陀仏であり、呼吸という物質的なものも南無阿弥陀仏である。
また
『念仏三昧の領解ひらけなば、身もこころも南無阿弥陀仏なり。かえりてその領解ことばにあらわるるとき、南無阿弥陀仏ともうすが、うるわしき弘願の念仏にてあるなり。
念仏というは、かならずしも、くちに南無阿弥陀仏ととなうるのみにあらず。阿弥陀仏の功徳、われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じいりたまいけるものを、という信心のおこるを、念仏というなり。』
ここで、念仏三昧中のあるポイントである「領解」がオープンできれば、肉体も心も南無阿弥陀仏であるという。このポイントに至った言葉が南無阿弥陀仏という弥陀の本願の念仏であるという。
ここで阿弥陀仏の功徳は世界の始め(十劫正覚の刹那)から成立していたものだったと気づくのだと示して、世界がすべて南無阿弥陀仏であることを直観する、というように読める。
最初は観想法で始まったが、本当に世界がすべて南無阿弥陀仏である世界に進むのであると説明しているように思う。
本当にそうした世界があることは妙好人の語った境地でそういうのが時々出てくることでわかる。
念仏三昧という体験は、いつか体験ではない体験に転換する。その転換点を念仏三昧の領解として表現しているように思う。
本当に念仏を繰り返していけば、念仏三昧に入り、すべてが南無阿弥陀仏の世界に入るのだろうか。
蓮如の重視していた安心決定鈔から
『念仏三昧において、信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもうべきなり。』
ここは、これから信心決定という悟りに入ろうとする人は、身も心も南無阿弥陀仏だという観想法的な入り方をするとする。
更に
『われらが道心、二法、三業、四威儀すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿弥陀仏なり。されば、いずるいき、いるいきも、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿弥陀仏の体なり。』
観念、想念の心の動きが南無阿弥陀仏であり、呼吸という物質的なものも南無阿弥陀仏である。
また
『念仏三昧の領解ひらけなば、身もこころも南無阿弥陀仏なり。かえりてその領解ことばにあらわるるとき、南無阿弥陀仏ともうすが、うるわしき弘願の念仏にてあるなり。
念仏というは、かならずしも、くちに南無阿弥陀仏ととなうるのみにあらず。阿弥陀仏の功徳、われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じいりたまいけるものを、という信心のおこるを、念仏というなり。』
ここで、念仏三昧中のあるポイントである「領解」がオープンできれば、肉体も心も南無阿弥陀仏であるという。このポイントに至った言葉が南無阿弥陀仏という弥陀の本願の念仏であるという。
ここで阿弥陀仏の功徳は世界の始め(十劫正覚の刹那)から成立していたものだったと気づくのだと示して、世界がすべて南無阿弥陀仏であることを直観する、というように読める。
最初は観想法で始まったが、本当に世界がすべて南無阿弥陀仏である世界に進むのであると説明しているように思う。
本当にそうした世界があることは妙好人の語った境地でそういうのが時々出てくることでわかる。
念仏三昧という体験は、いつか体験ではない体験に転換する。その転換点を念仏三昧の領解として表現しているように思う。