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人を神として祀る歴史

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◎情報操作、洗脳あるいは国家カルト

日本古代では、人霊が神霊に昇格することはほとんどなかった。その例外は怨霊鎮めであった。

『神道葬祭から招魂社へ

中世から近世への移行期に、吉田神道は「新神道」に衣替えして確立する。その顕著な事例が人霊を神に祀ることである。

古代における人霊祭祀には制限があり、人霊が神霊に昇格することはほとんどなかった。多武峯に祀られた藤原鎌足の廟が神社化し、大明神号を与えられるようになるのは中世後期まで待たなければならない。

人霊祭祀は御霊信仰と天神信仰など、怨霊を鎮めるために祀る形式に限られている。これを大きく転換させたのが吉田兼倶である。』
(日本神道史/岡田荘司編/吉川弘文館P186から引用)

というわけで、吉田神道の創始者吉田兼倶は、人間を神に祀ることを創見し、人霊祭祀に積極的立場をとった。

ところが出口王仁三郎は、神は人に罰を与えないが、人は人に罰を与えるから気をつけよとした。また第二次世界大戦終了後の吉岡発言では、「ただほんとうの存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。殊に日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違いの根本だった。」とし、国家神道が人霊祭祀中心であったことを批判した。

しかしながら、人は神の生き宮であり、個人個人が一個の神として生きることを求められる時代が現代である。人間精神がここまで進化したからには、人霊祭祀は、十把一からげに批判されるべきものではないが、情報操作や洗脳の一手段として、あるいは国家カルトみたいなものへ持っていく手段として再び人霊祭祀が利用される可能性が否定できないのは、現代社会の危険性である。日本人は、信心深そうな風俗習慣とは裏腹に実質無神論に近い人がほとんどだからである。



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