◎達磨も老子も無為にして為さざるなし
達磨の二入四行論は、1900年に発見された敦煌本の一つ。二入とは、理入、行入。
四行とは、報冤行、随縁行、無所求行、称法行。
以下は達磨の二入四行論の一節。
『法身(永遠なる仏体)は身体を持たぬ。それゆえに見ないという見方で、はじめて法身を見る。
正法は、音声をもたない。それゆえに聞かぬという聞き方で、はじめて正法を聞く。
般若は、分別知をもたない。それゆえに分別知を使わないで、はじめて般若を知る。』
(人類の知的遺産 第16巻 ダルマ P167から引用)
見ないという見方、聞かぬという聞き方、分別知を使わないという方法論こそが禅である。
これにより、
見たものも見ないものも見ることができる。
聞いたものも聞かないものも見ることができる。
知っているものも知らないものも知ることができる。
老子も無為にして為さざるなし、と同じことを説く。
それが起こるのはZEN Meditationである。
達磨の二入四行論は、1900年に発見された敦煌本の一つ。二入とは、理入、行入。
四行とは、報冤行、随縁行、無所求行、称法行。
以下は達磨の二入四行論の一節。
『法身(永遠なる仏体)は身体を持たぬ。それゆえに見ないという見方で、はじめて法身を見る。
正法は、音声をもたない。それゆえに聞かぬという聞き方で、はじめて正法を聞く。
般若は、分別知をもたない。それゆえに分別知を使わないで、はじめて般若を知る。』
(人類の知的遺産 第16巻 ダルマ P167から引用)
見ないという見方、聞かぬという聞き方、分別知を使わないという方法論こそが禅である。
これにより、
見たものも見ないものも見ることができる。
聞いたものも聞かないものも見ることができる。
知っているものも知らないものも知ることができる。
老子も無為にして為さざるなし、と同じことを説く。
それが起こるのはZEN Meditationである。