◎「排」という冥想
孟孫才はその母の死に際して、大げさに哭いたり、心も痛まず、葬式で哀しみもしなかったのにもかかわらず、魯国での彼の評判が落ちないのはおかしいと顔回が孔子に問う場面から始まる荘子の大宗師篇の一節がある。
その最後に、欠点を告げて暴くのは、笑うには及ばない。笑いを楽しむのは、物事を推移に任せるには及ばない。
物事の推移にまかせることに安んじて、造化の変化を去ったら、寥(しず)かなる天一に入る。
『造適不及笑、献笑不及排、安排而去化、乃入於寥天一』
化すなわち造化の変化とは、時々刻々転変する物質と精神の事象の展開のことであり、有である。これを止め去れば、天一と合一する。
「排」を「物事の推移にまかせること」と訳したが、「排」はそういうタイプの冥想を指すように思う。観想法でなく、マントラでなく、只管打坐かただ坐るタイプの冥想か。
孟孫才はその母の死に際して、大げさに哭いたり、心も痛まず、葬式で哀しみもしなかったのにもかかわらず、魯国での彼の評判が落ちないのはおかしいと顔回が孔子に問う場面から始まる荘子の大宗師篇の一節がある。
その最後に、欠点を告げて暴くのは、笑うには及ばない。笑いを楽しむのは、物事を推移に任せるには及ばない。
物事の推移にまかせることに安んじて、造化の変化を去ったら、寥(しず)かなる天一に入る。
『造適不及笑、献笑不及排、安排而去化、乃入於寥天一』
化すなわち造化の変化とは、時々刻々転変する物質と精神の事象の展開のことであり、有である。これを止め去れば、天一と合一する。
「排」を「物事の推移にまかせること」と訳したが、「排」はそういうタイプの冥想を指すように思う。観想法でなく、マントラでなく、只管打坐かただ坐るタイプの冥想か。