◎自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり
道家の房中術を俟つまでもなく、性愛をジャンプ台としてジャンプ・アウトできると見て、その可能性に言及した人物は、古来時折姿を見せる。しかし、それは、取り扱うものがものだけに、左道タントラや、真言立川流のように、全く宇宙意識、空、無、大神、ニルヴァーナなどとは全く違う方向に行きやすいものである。
ダンテス・ダイジのセクシュアル・メディテーションに関する言及では、
人は性愛によっても神秘体験を誘発するためにトランス状態に入ることができる。
自我意識の希薄化は、それがどのような方法で生じたにせよ、狂気にも至高の神秘体験にも開かれた状態なのである。
そして開かれた意識が狂気に落ち込むか至高の神秘体験に高揚するかは、結局その人の霊的主体の素直さ、広さ、高さ、深さの度合いによると言える。
私たちは悪霊、狂気を恐れてはならない。
あるがままの率直さのみが、私たちを私たち自身の本源的光明の中へ回帰させることができる。
というのがある。
自我意識の希薄化した状態がトランスだが、性愛でトランスは生じることがあり、そこから狂気に進む場合とニルヴァーナに行く場合がある。その分かれ目こそが、あるがままの率直さを持ち得ているかどうかだと示している。
勿論率直さだけでたどり着けるわけではなく、広さ、高さ、深さという表現で、魂の成熟度を測るメジャーを出してきている。
一方で、悪霊、狂気を恐れないで、また自分が上記の成熟度を満たしているかどうかもわからない状態で、セクシュアル・メディテーションに突入するのは、自殺行為のようなものであることは察せられる。
セクシュアル・メディテーション、性愛冥想は誰もが関心を持つものだが、その難易度は極めて高いものだ。観想法と神格召喚を伴った房中術を儀軌どおりにこなしたとしても、それにより神人合一するかどうかは全く別の問題なのである。
セクシュアル・メディテーションでの犬死を避けるべく、マスターの存在は大きい。
道元は、
仏道を習うというは、自己を習うなり。
自己を習うというは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および
他己の身心をして脱落せしむるなり
と言ったが、性愛で自己を忘れ、アートマンなる「有」を確認し、自己の身心および
パートナーの身心を脱落させるのが、性愛冥想なのだと思う。
道家の房中術を俟つまでもなく、性愛をジャンプ台としてジャンプ・アウトできると見て、その可能性に言及した人物は、古来時折姿を見せる。しかし、それは、取り扱うものがものだけに、左道タントラや、真言立川流のように、全く宇宙意識、空、無、大神、ニルヴァーナなどとは全く違う方向に行きやすいものである。
ダンテス・ダイジのセクシュアル・メディテーションに関する言及では、
人は性愛によっても神秘体験を誘発するためにトランス状態に入ることができる。
自我意識の希薄化は、それがどのような方法で生じたにせよ、狂気にも至高の神秘体験にも開かれた状態なのである。
そして開かれた意識が狂気に落ち込むか至高の神秘体験に高揚するかは、結局その人の霊的主体の素直さ、広さ、高さ、深さの度合いによると言える。
私たちは悪霊、狂気を恐れてはならない。
あるがままの率直さのみが、私たちを私たち自身の本源的光明の中へ回帰させることができる。
というのがある。
自我意識の希薄化した状態がトランスだが、性愛でトランスは生じることがあり、そこから狂気に進む場合とニルヴァーナに行く場合がある。その分かれ目こそが、あるがままの率直さを持ち得ているかどうかだと示している。
勿論率直さだけでたどり着けるわけではなく、広さ、高さ、深さという表現で、魂の成熟度を測るメジャーを出してきている。
一方で、悪霊、狂気を恐れないで、また自分が上記の成熟度を満たしているかどうかもわからない状態で、セクシュアル・メディテーションに突入するのは、自殺行為のようなものであることは察せられる。
セクシュアル・メディテーション、性愛冥想は誰もが関心を持つものだが、その難易度は極めて高いものだ。観想法と神格召喚を伴った房中術を儀軌どおりにこなしたとしても、それにより神人合一するかどうかは全く別の問題なのである。
セクシュアル・メディテーションでの犬死を避けるべく、マスターの存在は大きい。
道元は、
仏道を習うというは、自己を習うなり。
自己を習うというは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および
他己の身心をして脱落せしむるなり
と言ったが、性愛で自己を忘れ、アートマンなる「有」を確認し、自己の身心および
パートナーの身心を脱落させるのが、性愛冥想なのだと思う。