◎マーヤ(幻影)を空性の悟りの智慧に変容させる
チベット密教では、サンヴァラ(交合)は、空性大楽に誘う。空と楽を結合させる必要性については、マーヤ(無明、幻影)を空に転換するのだから、楽という原始仏教の初禅から三禅までの始めの段階でみられるエレメントをことさらに用いるのは、当然と言えば当然なのかもしれない。
※空性大楽とは、空性の悟りの智慧と楽の深い経験が、分かちがたく結びついていること。空性大楽とは不変の楽のこと。
『無上ヨーガタントラのクラスの密教においては、体内の生命元素のことを菩提心と呼びます。実際にこの菩提心を溶かしだすためには、性的魅力のある異性に対して感じるような欲望の感情をまず持つ必要があります。そうすれば、その欲望の力によって、体内のエレメントが溶けだし、概念のない心の状態が生まれてきます。菩提心が溶けはじめたら、さらに、それに意識を集中させる必要があります。
体内で菩提心が溶けだすと、至福にみちた概念のない状態(空性大楽)の経験が生じます。もしこの至福を味わいながら、その本性は空であると認識している心の状態を生み出すことができれば、幻影を空性の悟りの智慧に変容させるという一大事を達成したことになります。なぜなら、この智慧は、もともとは貪欲という煩悩だったのですから。
概念のない状態―――つまり、至福に満ちた心―――の体験をつうじて空性を悟ることができれば、そうやって生み出された智慧は、苦しみの原因となる煩悩やあやまった認識の力をすべて弱める、きわめて強力な解毒剤としての役割を果たすようになります。幻影から生じた智恵が、幻影を破壊するのですから、幻影そのものが幻影を破壊するのだ、といってもいいかもしれません。
性的欲望から生み出された至福に満ちた空の体験が、その性的衝動の力を融解させてしまうのです。これは、木に生みつけられる虫の生き方に似ています。この虫は、自分が生みおとされたまさにその木を食べるのです。幻影を悟りへの道の推進力として使うことは、密教のユニークな特徴です。』
(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P132-133から引用)
最近巷間の房中術本を読んでみたが、大半は快感追求に終始し、ダライラマのように人間を超えていく技術の展開として捉えているものはなかった。
若い時期の禁欲はきついが、禁欲の準備ができた者だけが、その先に進むことができる。また性的衝動が悟りの推進力なのだが、その原理は、カーマ・ヨーガだけで用いられているわけではない。
チベット密教では、サンヴァラ(交合)は、空性大楽に誘う。空と楽を結合させる必要性については、マーヤ(無明、幻影)を空に転換するのだから、楽という原始仏教の初禅から三禅までの始めの段階でみられるエレメントをことさらに用いるのは、当然と言えば当然なのかもしれない。
※空性大楽とは、空性の悟りの智慧と楽の深い経験が、分かちがたく結びついていること。空性大楽とは不変の楽のこと。
『無上ヨーガタントラのクラスの密教においては、体内の生命元素のことを菩提心と呼びます。実際にこの菩提心を溶かしだすためには、性的魅力のある異性に対して感じるような欲望の感情をまず持つ必要があります。そうすれば、その欲望の力によって、体内のエレメントが溶けだし、概念のない心の状態が生まれてきます。菩提心が溶けはじめたら、さらに、それに意識を集中させる必要があります。
体内で菩提心が溶けだすと、至福にみちた概念のない状態(空性大楽)の経験が生じます。もしこの至福を味わいながら、その本性は空であると認識している心の状態を生み出すことができれば、幻影を空性の悟りの智慧に変容させるという一大事を達成したことになります。なぜなら、この智慧は、もともとは貪欲という煩悩だったのですから。
概念のない状態―――つまり、至福に満ちた心―――の体験をつうじて空性を悟ることができれば、そうやって生み出された智慧は、苦しみの原因となる煩悩やあやまった認識の力をすべて弱める、きわめて強力な解毒剤としての役割を果たすようになります。幻影から生じた智恵が、幻影を破壊するのですから、幻影そのものが幻影を破壊するのだ、といってもいいかもしれません。
性的欲望から生み出された至福に満ちた空の体験が、その性的衝動の力を融解させてしまうのです。これは、木に生みつけられる虫の生き方に似ています。この虫は、自分が生みおとされたまさにその木を食べるのです。幻影を悟りへの道の推進力として使うことは、密教のユニークな特徴です。』
(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P132-133から引用)
最近巷間の房中術本を読んでみたが、大半は快感追求に終始し、ダライラマのように人間を超えていく技術の展開として捉えているものはなかった。
若い時期の禁欲はきついが、禁欲の準備ができた者だけが、その先に進むことができる。また性的衝動が悟りの推進力なのだが、その原理は、カーマ・ヨーガだけで用いられているわけではない。