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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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見神、見仏、見性の限界

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◎見性だけでは不徹底

昨日記事では、イエスは見神体験は有していたが、神人合一を得たのは十字架上だったという話を出した。

見神、見仏、見性とは、禅の十牛図でいえば、第三図見牛であり、全然最初のほうであり、その後の人生の送り方によっては、悪に陥ることすらある。

イレーヌ・マキネスという修道女が禅をやる話で、「禅入門 -カトリック修道女の歩んだ道/岩波書店」という本の中で彼女が、山田耕雲という在家の僧について禅修行をする。彼女は見性したのだが、それでは山田耕雲という人の悟境はどうかとネットを探すと出てきた。それによれば、いかにも白隠のそれに似たところがある。

江戸時代の白隠は、多数の出家・在家の弟子を見性せしめ世間的には評価の高いところであるが、なぜかダンテス・ダイジは、白隠を不徹底であるとして評価していないところがあった。

それはなぜか。見神、見仏、見性だけでは、いわゆる最終解脱ではないからである。禅の十牛図でいえば第八図の円相までいって届く。筆で円を描いたからといってその人が人牛倶忘であるということではない。

第三図の境涯しか持たぬのに人を指導してよいのかというところすらある。

ただし世間的には、見性した人すら極めて少なく、見性すれば悟った人と称して差し支えはあるまい。

そんな中、同じ禅僧でも至道無難は、見性だけの人の危険性を指摘しており、わかっている禅僧であると思う。

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