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久松真一の悟りの定義

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◎内に向かってさえも求むるな

久松真一の悟りの定義
『さとり―― 悟あるいは覚――とは何かと問われるならば、仏教学者はそれを仏教古来の典籍の中に、禅学者は過去の文献の中に、おそらく対象知的に求めようとし、禅道家は打坐により、あるいは既往の禅の機縁により、主体的に求めようとするでもあろう。

しかしながら、さとりは過去の文献や機縁など、他に求められるものではなくして、即今、当処で直下(じきげ)に、人間そのものの本来の在りかたにおいて、自然法爾(じねんほうに)に自覚せらるべきものである。禅で、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏といわれ、また、さとりは真の自己であり、他に向かって馳求するなかれといわれるのみならず、内に向かってさえも求むるな、求むればかえってそむくといわれるゆえんである。』
(無神論 久松真一/著 法蔵館P86から引用)

久松真一は禅家でありながら、自然法爾(じねんほうに)などと念仏家の用語も引いて悟りを定義してみせる。自然法爾をとあるポジティブな傾向の見方、あり方と安直にとらえれば、その時にそれはさとりではないだろう。

それを見ただけで語るのが十牛図第三図、そのものになったということでもなく、なにもかもなしが第八図、そして人間に回帰するのが第十図

それにしても見性、見仏、見神だけでは修行途上であり、本来危ういはずなのだが。

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