◎ダライラマの心の説明
ダライ・ラマが心の本性との関係でいうと光明とは何かという説明に対して、光明とは心の本来の輝きのことであるとしている。
概念的思考(分別)が生じるそれぞれの瞬間に光明という心の本性が必ず生じるというサキャ派の観察がある。
実際にくすんだ色の物体を見続けて、それに意識を集中し続けながら、自分自身の思考と経験を注意して観察し、それ以外の外的あるいは内的な対象に惑わされないようにしようと強く自覚する。
この自覚を持続すれば、自分の心が惑わされ、概念的思考(分別)が発生するその瞬間を見ることができるという。
つまり、過去の思い出が浮かんだり、歌が聞こえてきたり、未来への思いが出てきたりするが、それらを雑念として気がつくようにしていく。
この練習を繰り返し積むことで、無数の観念の層をはぎ取っていき、最終的には、心本来の水晶のように光り輝く透明な心の本性を確認できるとする。
(以上出典:宇宙のダルマ/ダライラマP210-212)
雑念を相手にせず、捨てるやり方は禅でも同じ。
ダライラマの説明する心とは心理ではなく、現実現象に踏み込んでいるように思う。それが証拠に、彼は光明という心本来の働きは言葉では十分に説明できないとする。
つまり、光明とは無意識の世界に属すものであり、無意識の世界とは心理だけでなく、現実を生成変化させる世界でもあり、心とは心理だけという見方でなく、現実そのものであるという見方をほのめかしているように思う。
水晶身魂とは至福千年に生きる人々のことである。
ダライ・ラマが心の本性との関係でいうと光明とは何かという説明に対して、光明とは心の本来の輝きのことであるとしている。
概念的思考(分別)が生じるそれぞれの瞬間に光明という心の本性が必ず生じるというサキャ派の観察がある。
実際にくすんだ色の物体を見続けて、それに意識を集中し続けながら、自分自身の思考と経験を注意して観察し、それ以外の外的あるいは内的な対象に惑わされないようにしようと強く自覚する。
この自覚を持続すれば、自分の心が惑わされ、概念的思考(分別)が発生するその瞬間を見ることができるという。
つまり、過去の思い出が浮かんだり、歌が聞こえてきたり、未来への思いが出てきたりするが、それらを雑念として気がつくようにしていく。
この練習を繰り返し積むことで、無数の観念の層をはぎ取っていき、最終的には、心本来の水晶のように光り輝く透明な心の本性を確認できるとする。
(以上出典:宇宙のダルマ/ダライラマP210-212)
雑念を相手にせず、捨てるやり方は禅でも同じ。
ダライラマの説明する心とは心理ではなく、現実現象に踏み込んでいるように思う。それが証拠に、彼は光明という心本来の働きは言葉では十分に説明できないとする。
つまり、光明とは無意識の世界に属すものであり、無意識の世界とは心理だけでなく、現実を生成変化させる世界でもあり、心とは心理だけという見方でなく、現実そのものであるという見方をほのめかしているように思う。
水晶身魂とは至福千年に生きる人々のことである。