◎道枢
荘子斉物論篇に生と死の区別のないところがある。
曰く、生は死であり、死は生である。果たして彼とこれの違いはあるか。彼と是れの違いのないものを道枢という。枢にして初めてそのリングは中心を得て、以て無窮に(臨機応変に)対応することができる。
世界のあらゆる事象をリング(環)と見て、その中心たる道枢を得れば、あらゆるものに縦横に対応できる。
このような表現は、臨済義玄の友人だった禅僧普化の言葉に見ることができる。
「明るいのが来れば明るいように打ち、暗いのが来れば暗いように打ち、四方八方から来れば旋風のように打ち、空から来れば連打する。」
普化がどうしてこういう表現をとるのかわからなかったが、荘子も普化も同じ視点に立っていたとは。
道枢という表現は、何かあるのか何かないのかすら想像もできないが、ここでは、その機能について、荘子も普化も言及したということになるのだろう。
生と死の区別がなければ、魂の行方など論ずるまでもない。
荘子斉物論篇に生と死の区別のないところがある。
曰く、生は死であり、死は生である。果たして彼とこれの違いはあるか。彼と是れの違いのないものを道枢という。枢にして初めてそのリングは中心を得て、以て無窮に(臨機応変に)対応することができる。
世界のあらゆる事象をリング(環)と見て、その中心たる道枢を得れば、あらゆるものに縦横に対応できる。
このような表現は、臨済義玄の友人だった禅僧普化の言葉に見ることができる。
「明るいのが来れば明るいように打ち、暗いのが来れば暗いように打ち、四方八方から来れば旋風のように打ち、空から来れば連打する。」
普化がどうしてこういう表現をとるのかわからなかったが、荘子も普化も同じ視点に立っていたとは。
道枢という表現は、何かあるのか何かないのかすら想像もできないが、ここでは、その機能について、荘子も普化も言及したということになるのだろう。
生と死の区別がなければ、魂の行方など論ずるまでもない。