◎イエスの顔は日のように輝き
神の本質の示現を目撃することは、通常の人間の運命にはないことだ。
最高の、光り輝く、普遍の、無限の、太初の神の姿を見るシーンが稀に伝えられることがある。
マタイによる福音書第17章から
『六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。』
イエスが大悟覚醒したのは、十字架にかかってから後だと思うが、それ以前に起こったこの事件は、イエスの事件ではなく、弟子に起こったイヴェントなのだろうと思う。
この時点でイエスは、エリアやモーセと同格であって、弟子たちが『かの二人に人類の運命を付託されたのがイエスである』と話しまくるのは不都合なことだったのだろう。
「人の子が死人の中からよみがえる」時とは、それを見ている自分が死にあるか生にあるか中有にあるかが問題となる。
世の終わりにイエスは再臨するのだが、どこに再臨するのかという問題と同義の問題である。世の終わりにすべての死者も一旦は復活するが、どこに復活するのか。
そういう表現の調子は、チベット死者の書での、『悟った者も悟っていない者もすべて死の瞬間に神たる原初の光を見る』と酷似しているように思う。
神の本質の示現を目撃することは、通常の人間の運命にはないことだ。
最高の、光り輝く、普遍の、無限の、太初の神の姿を見るシーンが稀に伝えられることがある。
マタイによる福音書第17章から
『六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。』
イエスが大悟覚醒したのは、十字架にかかってから後だと思うが、それ以前に起こったこの事件は、イエスの事件ではなく、弟子に起こったイヴェントなのだろうと思う。
この時点でイエスは、エリアやモーセと同格であって、弟子たちが『かの二人に人類の運命を付託されたのがイエスである』と話しまくるのは不都合なことだったのだろう。
「人の子が死人の中からよみがえる」時とは、それを見ている自分が死にあるか生にあるか中有にあるかが問題となる。
世の終わりにイエスは再臨するのだが、どこに再臨するのかという問題と同義の問題である。世の終わりにすべての死者も一旦は復活するが、どこに復活するのか。
そういう表現の調子は、チベット死者の書での、『悟った者も悟っていない者もすべて死の瞬間に神たる原初の光を見る』と酷似しているように思う。