◎直心
一般に一行三昧とは、只管打坐なら只管打坐、公案なら公案、お題目ならお題目、念仏なら念仏をひたすら行うことである。
ところが禅の六祖恵能の一行三昧とは、あらゆる場所において、行住坐臥を、常にひたすらの直心で行うことである。
言い換えれば、「直心これ道場、直心」である。口で一行三昧をとなえながら直心を行わないのはだめだ。ただ直心を行じて、いかなる物やイデオロギーや信念に執着してはならない。
心が静寂になって想念を起こさないだけでは何もならない、常に純一で雑じり気のない正直な心で行動し、意思し、会話する。
これが六祖恵能の説明である。
直心を発するとは、十牛図でいえば第八図人牛倶忘であって、そこに至った9割がたの人はそこで終わるのだが、それを持って日常生活を生きよという説なのだと思う。
要するに悟りをもって日常生活を生きる姿が一行三昧なのであって、一般的な解釈であるところの、一行三昧を行えば悟るなどと言っているわけではないと思う。
一般に一行三昧とは、只管打坐なら只管打坐、公案なら公案、お題目ならお題目、念仏なら念仏をひたすら行うことである。
ところが禅の六祖恵能の一行三昧とは、あらゆる場所において、行住坐臥を、常にひたすらの直心で行うことである。
言い換えれば、「直心これ道場、直心」である。口で一行三昧をとなえながら直心を行わないのはだめだ。ただ直心を行じて、いかなる物やイデオロギーや信念に執着してはならない。
心が静寂になって想念を起こさないだけでは何もならない、常に純一で雑じり気のない正直な心で行動し、意思し、会話する。
これが六祖恵能の説明である。
直心を発するとは、十牛図でいえば第八図人牛倶忘であって、そこに至った9割がたの人はそこで終わるのだが、それを持って日常生活を生きよという説なのだと思う。
要するに悟りをもって日常生活を生きる姿が一行三昧なのであって、一般的な解釈であるところの、一行三昧を行えば悟るなどと言っているわけではないと思う。