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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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先祖のカルマ-2

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◎一つ屋根の下に赤の他人の居候が何人も

本山博の先祖のカルマの霊の続き。

『もう一つは今の続きのようなケースですが、教団の方針なのでしょうが、今までの位牌を全部捨ててしまったり、先祖の戒名を変えてみたり、それで支部長やら組長になったりして、今度はよその家の位牌の戒名を変えて自分の家の祭壇に並べて、毎日拝んでいる。

これは云ってみれば、その人が霊的に非常に進化していれば、その霊たちを救うことが出来るでしょう。またこれがみな成仏しているような霊ならば問題はありません。成仏していれば害もないし、その人が拝んでくれたら有難いと思ってそれで済むでしょう。

ところが非常に苦しんでいる霊がいるとすると、この人を頼ってくるのです。その苦しみが大きければ大きい程、頼られた方は大変なわけです。おかしくなってしまう。そういう例もかなりあるようです。

考えようによっては立派な行為だとは思いますが、力が及ばない限りは、泳げない人が水の中に飛び込んで人を助けようとするようなもので、本人自身がやられてしまうという事です。

極端な場合は、生死の境をさまようような大病になっている人もあるほどです。立派な行為ですから神様が必ず救って下さるとは思いますが、現実には家の者がみな困っているわけです。

先祖が怒っていたのでは具合が悪い。というのは、自分の家の位牌と他の家の位牌を一緒にして拝んでいるわけですから、一つ屋根の下に赤の他人の居候が何人も入り込んでいるようなものです。先祖の霊が怒るのも無理はありません。』
(輪廻転生の秘密 再生、カルマとそれを越える道 本山博/著 宗教心理出版P93-94から引用)

位牌を捨てるというのは、霊能力者でない人にとっても罰当たり感を感じられるのだが、そういう点では、明治の初めに皇族そろって神道に改宗させられた模様であったのも似たようなものかもしれない。

そこは日本であって、捨てるのではなく置き換えるのだそうだが、それですら霊能力者の目から見れば、困った展開を招く。

大霊能力者出口王仁三郎であっても手を焼くような困った霊も世の中にはあるので、生兵法は大怪我のもとである。

さて最後の審判あるいは、大峠の後は千年王国となり、宗教のない時代となる。宗教のない時代とは、個々人が神様と直接コンタクトする時代のこと。そうした時代は、宗派は問題にならないので、宗派なき冥想道の時代である。

人間である以上先祖は必ずあり、自分が子宮を選んでくる段階で間違いなく先祖を俯瞰はしてきている。人間には肉体は必ずある以上、先祖を無視できるものではない。だが、それにこだわりすぎると、本来履(ふ)むべき神の道、仏の道に至ることはできない。

釈迦も家族を捨て出家し、イエスはエッセネ派なる家族ではない集団で修行していた。出口王仁三郎も高熊山の洞窟で飲まず食わずで一人冥想修行を行った。こういう姿には、先祖の姿はない。人はパンのみにて生きるものではないからだ。

霊肉のバランスとは、先祖のことでいえば、自分と先祖のバランスだが、まず自分が助からねば先祖を助けることもできない。自分が大悟覚醒して初めて霊肉のバランスを言えるのであって、大悟していなければ、肉肉しかなく、バランスのことなど論じられない。

したがって、このブログでは霊がかりを戒めるのは、この辺の消息からである。

谷口雅春は,大本教がチャネリングをやっていた時代に健筆を振るっていたせいか、いまから見ると霊がかりっぽい印象がある。またクンダリーニ・ヨーギとしてちゃんとしている本山博であっても、霊がかりにひっかからず彼の理解するところをきちんとわかっていた人はどの程度いたのか疑問に思うところもある。

どういうわけか、本山博の著作群は、自動書記風のものが多く、また霊能力者としての述懐も多く、事前知識のない場合は総体での真意を汲むのが難しいかもしれないと感じさせられる。

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