◎社会での他者侵略
これは、クリシュナムルティの著作中の白眉『自己変革の方法』から。クリシュナムルティの講演集は聴衆のレベルのせいか冗長なことが多く、核心を性急に求める冥想修行者には食い足りないことがままあるが、この本は珍しく濃厚である。
『大抵の人間は社会的地位を確保することによって満足を得ようと願っている。それは、彼らがつまらない無名の人間で終りたくないと思っているからだ。社会というものは、立派な地位を占める人間はきわめて丁重な扱いを受けるが、一方、社会的地位をもたない人間はただ酷使に甘んじなければならないようにつくられている。
それ故、だれでもみな、社会的地位や家庭内の地位を欲し、あるいは神の右側に坐りたいと願っている。
しかも、その地位は他人によって認められなければならない。他人が認めるのでなければ、それは決して地位とはいえないからだ。
人間はいつも演壇についていなければならない。それというのも、われわれの内部にはさまざまな害悪と精神的苦痛がひしめいており、それ故にこそ、偉い人物として外部で認められるのはきわめて愉快なことであるからである。
こうした地位や威信、権力を求め、何らかの方法ですぐれた人間として社会に認められたいと願う切々たる気持は、いいかえれば他人を支配したいという欲求であり、この支配欲が一つの侵略となるのである。
聖者としてより高い地位を求める聖者も、農場で互いくちばしでつっつきあっている鶏と同じように侵略的である。では、何がこのような侵略性を生みだすのだろうか。それは恐怖心ではないだろうか。』
(自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法 クリシュナムーティ/著 霞ケ関書房P80-81から引用)
社会における自己実現の願望は、人間の社会性の根源ではあるが、神なき自己実現の願望はしばしば暴走し、カルトへ金と時間をつぎ込んだり、巨大な国家カルト形成への原動力となり戦争を引き起こしたりする。
社会における自己実現の願望を否定することは、現代社会においては、自分の社会性の否定につながるのだが、クリシュナムリティムルティは、そこに敢えて切り込み、社会性の根源が恐怖であるとえぐり出す。
これは、クリシュナムルティの著作中の白眉『自己変革の方法』から。クリシュナムルティの講演集は聴衆のレベルのせいか冗長なことが多く、核心を性急に求める冥想修行者には食い足りないことがままあるが、この本は珍しく濃厚である。
『大抵の人間は社会的地位を確保することによって満足を得ようと願っている。それは、彼らがつまらない無名の人間で終りたくないと思っているからだ。社会というものは、立派な地位を占める人間はきわめて丁重な扱いを受けるが、一方、社会的地位をもたない人間はただ酷使に甘んじなければならないようにつくられている。
それ故、だれでもみな、社会的地位や家庭内の地位を欲し、あるいは神の右側に坐りたいと願っている。
しかも、その地位は他人によって認められなければならない。他人が認めるのでなければ、それは決して地位とはいえないからだ。
人間はいつも演壇についていなければならない。それというのも、われわれの内部にはさまざまな害悪と精神的苦痛がひしめいており、それ故にこそ、偉い人物として外部で認められるのはきわめて愉快なことであるからである。
こうした地位や威信、権力を求め、何らかの方法ですぐれた人間として社会に認められたいと願う切々たる気持は、いいかえれば他人を支配したいという欲求であり、この支配欲が一つの侵略となるのである。
聖者としてより高い地位を求める聖者も、農場で互いくちばしでつっつきあっている鶏と同じように侵略的である。では、何がこのような侵略性を生みだすのだろうか。それは恐怖心ではないだろうか。』
(自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法 クリシュナムーティ/著 霞ケ関書房P80-81から引用)
社会における自己実現の願望は、人間の社会性の根源ではあるが、神なき自己実現の願望はしばしば暴走し、カルトへ金と時間をつぎ込んだり、巨大な国家カルト形成への原動力となり戦争を引き起こしたりする。
社会における自己実現の願望を否定することは、現代社会においては、自分の社会性の否定につながるのだが、クリシュナムリティムルティは、そこに敢えて切り込み、社会性の根源が恐怖であるとえぐり出す。