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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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悟って後、俗世を生きる

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◎人間ドラマを演ずることのできない人

悟っていない俗人が、俗世を生きるのは、大変だし、全身全霊の努力も要求される。だが、悟った人でも、煩悩まみれの俗世を生きるのに耐え得る人とそうでない人がいる。

悟った人から見れば、悟った人も悟っていない人も同じだし、まして悟った人同士の差については、婉曲にしか表現しないので、わかりにくい。

悟って後、俗世を生きるとは、煩悩を生きるということである。禅では、悟って後、煩悩を生きることを聖胎長養とか、悟後の修行という。

禅は、西洋錬金術やチベット密教では、「乾いた道」「近道」などと呼ばれていると思うのだが、それは、悟後の修行があって、クンダリーニ・ヨーガでの悟りに近づくと考えられているのではないかと思った。

20年近く悟後の修行をやった臨済と大燈国師宗峰妙超。宗峰妙超は、9年間も字も読めない乞食の群れに日がな過ごした。ホームレス9年はきついが、インテリで極めて精妙な感受性を持つ覚者がそこで風雨を逃れるすべもなく暮らすのはまして生きづらい。

そういう第三者が見たら全く無駄で非生産的な悟後の修行のことは、本人も言わないし、後世のライターも書かない。だから余計にわかりにくい。

クンダリーニ・ヨーガ系の修行では、俗世的なマターを全ては排除しないまま修行を進めるので、悟り後の修行の必要性は問われないのではないか。

こうして、悟後の修行がいまいちだった道元のことでダンテス・ダイジが残した詩「人間になれなかった道元」がある。

その一部は
『今・吾・ここにて
道元老古仏に深く深く深く
帰依したてまつります

あなたは 人間になろうとして
只管打座の日々を送り
「正法眼蔵」を著述した

あなたの言う正法眼蔵が
人間そのものに他ならぬことを
私は知っている

しかもあなたは
決して人間になれなかった

道元よ
あなたはあまりにも弱すぎて
人間ドラマを愛することはできても
人間ドラマを演ずることはできなかった』
(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジより引用)

いまようやくこの詩の意味がとれた気がする。

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