◎社会性と人間の本質のズレ
現代人のズレが極点に至った原因は、
社会性の頂点にいる人でもみじめで情けない自分に変わりはないという状態を放置していること。
アメリカ大統領でも
日本の総理大臣でも
資産何兆円のスーパーリッチでも
世界を股にかけるスーパーモデルでも
フォロアー何十万を抱えるアイドルでも
スポーツ界のスーパーヒーローでも
ノーベル賞クラスの大科学者でも
谷崎、三島をしのぐ文豪でも
現代の名工でも
音楽や美術の大アーティストでも
一部上場企業のトップでも
囲碁将棋のトッププロでも
役人のトップでも
プライベートに帰れば、不安におののき、みじめで情けない自分に変わりはない。
その素敵なステータスは何年もつのだろう。賞賛が侮蔑批判に変わる懸念はないのだろうか。
これは、人間の社会性の充足、社会における自己実現、社会における成功というものが人間の本質とは何の関係もないことを示している。
これぞ現代が、人間の自然、ナチュラリティから極端にずれてしまったということである。
人は何のために生きるのだろう。この問いかけに対し、まともな回答を用意しようとしたのは社会における自己実現の方面だけであって、人間の本性、本当の自分というものに対する解決法についてはなおざりにされてきた。
それは、覚醒、悟りなのだが、愛、慈悲方向に向かうことでもある。ところが、それは社会性を論じたり、考慮したりする水平面上にはない。
一発逆転しないと、本物のそれには出会えない。
一発逆転するには、最後にそびえたつ巨大な壁を乗り越えなくてはならない。
意味がないもの、意味があるものの違いを超えるということ。
悟れるか悟れないかわからないけれども、冥想しないと悟れないみたいだ。あるいは、覚醒する保障もなく、その冥想法で行けるのかどうかもわからないし、悟った後生き残るかどうかもわからないけれども坐る。
こんな考え方は、メリデメ無視の非合理な考え方だが、そうした合理性、意味で構築された三段論法の世界を超えた直感が働かないと、自分を棄てて冥想に打ち込むなどという方向には動かない。
タロットカードの吊るされた男。誰がこんな格好をするものかと思う。禅問答でまじめに応答している相手に対して靴を脱いで頭に靴を載せる。
狂人ではないまともな常識人がこんな所作にまともに取り組むしかない、猛烈に成熟した時代がやってきてしまったのだ。
昭和30年代くらいまでは、悟りや覚醒というのは死期が視界に入ってきた老人のための専売特許であった。出口王仁三郎は、昭和20年代に亡くなったが、天国の話こそすれ、自分の覚醒体験そのものについてはほとんど布教、説明していない。当時は、覚醒、悟りというものはそれほど切羽詰まってはいなかったのだ。
いま、まさに万人にとって、悟り、覚醒が直面する最大のテーマになったが、多くの人は取り組むべきすべもモチベーションも持ち合わせない。
悟り、覚醒が、人間の苦悩の根本的救済であるかどうかも論理的に説明できないし、冥想がそれを解決してくれるメソッドであるかすらも証明できない。
だから、ズバリ無意味なことをできるかどうかが、この21世紀の知性が発達した人類に突き付けられた関門になっているのだ。
この非合理性を突破しようとする者は、自分を救うだけでなく救世主でもある。
現代人のズレが極点に至った原因は、
社会性の頂点にいる人でもみじめで情けない自分に変わりはないという状態を放置していること。
アメリカ大統領でも
日本の総理大臣でも
資産何兆円のスーパーリッチでも
世界を股にかけるスーパーモデルでも
フォロアー何十万を抱えるアイドルでも
スポーツ界のスーパーヒーローでも
ノーベル賞クラスの大科学者でも
谷崎、三島をしのぐ文豪でも
現代の名工でも
音楽や美術の大アーティストでも
一部上場企業のトップでも
囲碁将棋のトッププロでも
役人のトップでも
プライベートに帰れば、不安におののき、みじめで情けない自分に変わりはない。
その素敵なステータスは何年もつのだろう。賞賛が侮蔑批判に変わる懸念はないのだろうか。
これは、人間の社会性の充足、社会における自己実現、社会における成功というものが人間の本質とは何の関係もないことを示している。
これぞ現代が、人間の自然、ナチュラリティから極端にずれてしまったということである。
人は何のために生きるのだろう。この問いかけに対し、まともな回答を用意しようとしたのは社会における自己実現の方面だけであって、人間の本性、本当の自分というものに対する解決法についてはなおざりにされてきた。
それは、覚醒、悟りなのだが、愛、慈悲方向に向かうことでもある。ところが、それは社会性を論じたり、考慮したりする水平面上にはない。
一発逆転しないと、本物のそれには出会えない。
一発逆転するには、最後にそびえたつ巨大な壁を乗り越えなくてはならない。
意味がないもの、意味があるものの違いを超えるということ。
悟れるか悟れないかわからないけれども、冥想しないと悟れないみたいだ。あるいは、覚醒する保障もなく、その冥想法で行けるのかどうかもわからないし、悟った後生き残るかどうかもわからないけれども坐る。
こんな考え方は、メリデメ無視の非合理な考え方だが、そうした合理性、意味で構築された三段論法の世界を超えた直感が働かないと、自分を棄てて冥想に打ち込むなどという方向には動かない。
タロットカードの吊るされた男。誰がこんな格好をするものかと思う。禅問答でまじめに応答している相手に対して靴を脱いで頭に靴を載せる。
狂人ではないまともな常識人がこんな所作にまともに取り組むしかない、猛烈に成熟した時代がやってきてしまったのだ。
昭和30年代くらいまでは、悟りや覚醒というのは死期が視界に入ってきた老人のための専売特許であった。出口王仁三郎は、昭和20年代に亡くなったが、天国の話こそすれ、自分の覚醒体験そのものについてはほとんど布教、説明していない。当時は、覚醒、悟りというものはそれほど切羽詰まってはいなかったのだ。
いま、まさに万人にとって、悟り、覚醒が直面する最大のテーマになったが、多くの人は取り組むべきすべもモチベーションも持ち合わせない。
悟り、覚醒が、人間の苦悩の根本的救済であるかどうかも論理的に説明できないし、冥想がそれを解決してくれるメソッドであるかすらも証明できない。
だから、ズバリ無意味なことをできるかどうかが、この21世紀の知性が発達した人類に突き付けられた関門になっているのだ。
この非合理性を突破しようとする者は、自分を救うだけでなく救世主でもある。