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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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意味がないもの、意味があるものの違いを超える

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◎愛と自由

愛の世界では、純真さが求められる。それは高さである。

それは、只管打坐の道行きである。

ところが修道院や禅堂で悟りすました奴だって、腐乱死体を見たり、ドラッグでへろへろにラリっている人を見たり、男同士で抱き合っているのを見たり、ごろつきにからまれたりしたら、おろおろするだけだ。これが、愛の世界であり、高さの性質。

そういうどろどろのどうしようもない世界でも、どんどん闊歩できて、平気で奴らをノックアウトできるのが自由、出入自在。

これが、クンダリーニ・ヨーガの道行き。彼らには高さに加えて深さがある。釈迦も呂洞賓もパドマサンバヴァも出口王仁三郎も、高さに加えて深さがある。何でも来いだ。

禅は最後に黙照枯坐の只管打坐で抜けるのだが、それでは高さはゲットできるのだが、深さを得るために聖胎長養をすると見ることができる。

これは、二種の悟りの特徴であってロジカルではある。

そんな知的理解すらも、無意味にするようなあらゆる不安と馬鹿バカしさに生きるこの日常。

ここに全く無意味なものが登場してくる。


寒山拾得の笑い

秘密集会タントラの糞尿礼賛

ダンテス・ダイジの石ころ

雪を運んできて井戸を埋める

シーシュポスが大岩を山頂まで上げるがその岩は山頂から下に転がり落ちる

魏伯陽が丹薬製造に失敗して、その薬を飲むと死ぬだけだとわかっているが、3人の弟子に飲むかと決断を求め一人は飲んだ。

ナロパは師ティロパの指示で崖から飛び降りて死んだ。

インドラ神は、卑しい漁師の姿になって、不死の聖水アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとしたが、ウッタンカ仙人は、怒って飲まなかった。


あなたは、グルの指示どおり、無意味なことができるのか。これは単純に師匠への絶対服従がテーマではない。


聖者の話、まともな求道録の中には、必ず無意味と思える話が登場してくる。ダンテス・ダイジは人間の最後のテストとして、
「意味がないもの、意味があるものの違いを超えること」を挙げている。それを通過しないと世界はひっくりかえらないのだろう。

愛も自由もその先にしかないのかもね。



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