◎ノストラダムスの大予言シリーズ以降
1970年代に、五島勉が、ノストラダムスの大予言シリーズでベストセラーを連発し、世間の耳目を集めていた時期は、バブル以前であり、ようやくアメリカ由来の個人主義的世界観の中での自己実現という生き方の方向性に疑問が持たれ始めた時期であって、予言は、まだ完全に他人事の世界であった。その予言は、幻想が将来への漠然とした不安に触発されて、人口に膾炙しただけだった。
1990年代にオウム真理教事件が勃発した。これは、1999年7の月やハルマゲドンを自作自演しようとした奇妙な事件群であって、当初はマスコミも大いにこれを歓迎するところもあったが、亀戸のボツリヌス菌散布、松本サリン、地下鉄サリンと進むにつれ、そのカルトの凶暴な正体を露呈することになった。
古い社会人の常識としては、大規模な事件を起こすには、マスコミの煽動だけでなく、政治や資金の支援がないとなかなかこうした事件は起きないものだろうと思う。
1960年代70年代の学生運動も、陣頭に参加した人だけが注目されるが、資金を含めて、背後や周辺にそれを支援した左翼でないエスタブリッシュメントがあったらしいことを忘れてはいけないと思う。
私も若いときは少壮の求道者を気取ってはいたが、桐山氏の弟子や、OSHOバグワンのサンニャーシンだった者でオウムに入った者も少なくないらしいと聞いて、複雑な気分になる。
こうして1999年を迎えるころには、大衆の世界刷新の願望と現状への不安がないまぜになった世紀末的気運は、この大規模なカルト事件を通じて現実に直面させられたことにより、大いに幻滅させられた.
ババジ、クリシュナムルティ、OSHOバグワン、ダンテス・ダイジと大物覚者が、1990年代前半までに逝去したこともあって、2000年以降は、個々人が手探りで、自分と向き合い始める時代となった。
米ロを中心とした核戦力により、地球の命運が一瞬にして失われる累卵の危機であることは、1960年代から変わっていないが、2000年以降変化したのは、世界の危機が自分の危機であるという直感を持つ人が増えたことであろう。
自分が変わらないと世界は変わらない。自分が変わらないと世界は争闘を繰り返す。
人は当然に快適で幸福な天国的日常を求めるものだが、それへのアプローチは、闇雲に生産力や効率を上げることにあるのではなく、その背後にある功利性を捨てることが実は最後のテストになることに人々が感づき始めたように思う。
それへのプロセスでは結局文明破壊は避けられないのではないかと思ったところから、黙示録、アンゴルモア予言、いろは歌などの世紀末予言は、他人事でなく、自分への予言として再浮上してくるのだ。
1970年代に、五島勉が、ノストラダムスの大予言シリーズでベストセラーを連発し、世間の耳目を集めていた時期は、バブル以前であり、ようやくアメリカ由来の個人主義的世界観の中での自己実現という生き方の方向性に疑問が持たれ始めた時期であって、予言は、まだ完全に他人事の世界であった。その予言は、幻想が将来への漠然とした不安に触発されて、人口に膾炙しただけだった。
1990年代にオウム真理教事件が勃発した。これは、1999年7の月やハルマゲドンを自作自演しようとした奇妙な事件群であって、当初はマスコミも大いにこれを歓迎するところもあったが、亀戸のボツリヌス菌散布、松本サリン、地下鉄サリンと進むにつれ、そのカルトの凶暴な正体を露呈することになった。
古い社会人の常識としては、大規模な事件を起こすには、マスコミの煽動だけでなく、政治や資金の支援がないとなかなかこうした事件は起きないものだろうと思う。
1960年代70年代の学生運動も、陣頭に参加した人だけが注目されるが、資金を含めて、背後や周辺にそれを支援した左翼でないエスタブリッシュメントがあったらしいことを忘れてはいけないと思う。
私も若いときは少壮の求道者を気取ってはいたが、桐山氏の弟子や、OSHOバグワンのサンニャーシンだった者でオウムに入った者も少なくないらしいと聞いて、複雑な気分になる。
こうして1999年を迎えるころには、大衆の世界刷新の願望と現状への不安がないまぜになった世紀末的気運は、この大規模なカルト事件を通じて現実に直面させられたことにより、大いに幻滅させられた.
ババジ、クリシュナムルティ、OSHOバグワン、ダンテス・ダイジと大物覚者が、1990年代前半までに逝去したこともあって、2000年以降は、個々人が手探りで、自分と向き合い始める時代となった。
米ロを中心とした核戦力により、地球の命運が一瞬にして失われる累卵の危機であることは、1960年代から変わっていないが、2000年以降変化したのは、世界の危機が自分の危機であるという直感を持つ人が増えたことであろう。
自分が変わらないと世界は変わらない。自分が変わらないと世界は争闘を繰り返す。
人は当然に快適で幸福な天国的日常を求めるものだが、それへのアプローチは、闇雲に生産力や効率を上げることにあるのではなく、その背後にある功利性を捨てることが実は最後のテストになることに人々が感づき始めたように思う。
それへのプロセスでは結局文明破壊は避けられないのではないかと思ったところから、黙示録、アンゴルモア予言、いろは歌などの世紀末予言は、他人事でなく、自分への予言として再浮上してくるのだ。