◎フランク永井の臨死体験
フランク永井は、戦後の有名歌手。彼は自殺未遂により、臨死体験をした。
『昭和六〇年一〇月二一日、歌手のフランク永井氏は首吊り自殺を図った。夫人が発見したときにはすでに手遅れ同然だったが、さまざまな人々の努力によって氏は一命をとりとめた。氏によると、首を吊った瞬間に呼吸困難となり、視界が一瞬真っ赤になった後、真っ黒になったという。
空中に歪んだ・自分の顔が見え、次第に奇妙な音が聞こえ始めた。その音は次第に大きくなり、氏は暗い穴のようなトンネルの中に吸い込まれていった。そして急に上昇し、浮游しながら自由に壁や扉を通り抜け、下界の様子を見ることができたという。肉体との繋がりを断たれて柔らかい
光に包まれ、再び急上昇した。ふと気づくと、平地に立っていた。
前方の花園から美しい音楽とともに今は亡き肉親や友人の声が聞こえ、懐かしきと会いたい気持ちに駆られ、そちらへ歩き出した。そこには渡ると死に、引き返すと生き返るという三途の川があり、氏は何らかの力によって引き戻され、蘇生したのである。』
(死の体験 カール・ベッカー/著 法蔵館P16から引用)
フランク永井は、わりと冷静に起きたことを見ているようではある。
チベット死者の書では、死の8プロセスを示すが、彼の場合は、それが急速に起きた。
視界が一瞬真っ赤になったのは、6番目の増輝。
その後、視界が真っ黒になったのは7番目の近得。
そして体外離脱して、自分の肉体の顔を確認してから天国に入った。霊線が肉体とつながっていたようで、彼は蘇生した。
死のプロセスでは、8プロセス中の白赤黒が眼目でなく、原初の光という神にコンタクトするワン・シーンが何度か登場するのだが、そこがクリティカル・ポイントになっている。
悟りを求める人の間では、よく『恐怖の恵み』などというのだが、心があらゆる社会的なくびきを振り捨てて純粋な心だけになった状態が大きなチャンスであると捉えることがある。
神である原初の光は、死の8プロセス中の最後に登場してくる。チャンスには後ろ髪はないと言われるが、それもきっとそのように通り過ぎることが大半なのだろう。
チベット密教では、肉体が死ぬいくつかのプロセスの一つを最大のチャンス到来とみて、それをゲットさせようとするチャレンジなのである。
死のプロセスの8番目は『光明=原初の光、一切空』。
禅のホウ居士とその娘は時を選んで自ら死んだ。十分に準備してそれを捕まえに行った。これは、通常の禅の悟りと言われる見性を狙ったのではなく、それ以上のところを狙ったのだとわかる。
人間の意識には隙間があり、その隙間にチャンスが潜んでいる。そのチャンスはくしゃみなどでも起こるとまで言われている。
求道者にとっては、自殺未遂、臨死体験はその死からの蘇生が肝心な部分ではなく、それを見たか出会ったかが本来はメイン・テーマのはずである。
フランク永井は、この後記憶力の障害などが残ったという。それも現実。臨死体験もチャンスの一つだが、グロフの意識の深化実験などでみるようにはずれも多い。
絶対、永遠不壊を求める者にとっては、そういうリスクも織り込み済みなのだろう。それは精密に起こると聞かされてもどう精密に起こるかは自分で体験しないとわからない。
平昌オリンピックでも、死の恐怖の克服をメイン・テーマとする競技がある。それは、アルペン・スキーの滑降。F1と違って身を守る車体がないが、それでも今日も選手たちはチャレンジしていく。
フランク永井は、戦後の有名歌手。彼は自殺未遂により、臨死体験をした。
『昭和六〇年一〇月二一日、歌手のフランク永井氏は首吊り自殺を図った。夫人が発見したときにはすでに手遅れ同然だったが、さまざまな人々の努力によって氏は一命をとりとめた。氏によると、首を吊った瞬間に呼吸困難となり、視界が一瞬真っ赤になった後、真っ黒になったという。
空中に歪んだ・自分の顔が見え、次第に奇妙な音が聞こえ始めた。その音は次第に大きくなり、氏は暗い穴のようなトンネルの中に吸い込まれていった。そして急に上昇し、浮游しながら自由に壁や扉を通り抜け、下界の様子を見ることができたという。肉体との繋がりを断たれて柔らかい
光に包まれ、再び急上昇した。ふと気づくと、平地に立っていた。
前方の花園から美しい音楽とともに今は亡き肉親や友人の声が聞こえ、懐かしきと会いたい気持ちに駆られ、そちらへ歩き出した。そこには渡ると死に、引き返すと生き返るという三途の川があり、氏は何らかの力によって引き戻され、蘇生したのである。』
(死の体験 カール・ベッカー/著 法蔵館P16から引用)
フランク永井は、わりと冷静に起きたことを見ているようではある。
チベット死者の書では、死の8プロセスを示すが、彼の場合は、それが急速に起きた。
視界が一瞬真っ赤になったのは、6番目の増輝。
その後、視界が真っ黒になったのは7番目の近得。
そして体外離脱して、自分の肉体の顔を確認してから天国に入った。霊線が肉体とつながっていたようで、彼は蘇生した。
死のプロセスでは、8プロセス中の白赤黒が眼目でなく、原初の光という神にコンタクトするワン・シーンが何度か登場するのだが、そこがクリティカル・ポイントになっている。
悟りを求める人の間では、よく『恐怖の恵み』などというのだが、心があらゆる社会的なくびきを振り捨てて純粋な心だけになった状態が大きなチャンスであると捉えることがある。
神である原初の光は、死の8プロセス中の最後に登場してくる。チャンスには後ろ髪はないと言われるが、それもきっとそのように通り過ぎることが大半なのだろう。
チベット密教では、肉体が死ぬいくつかのプロセスの一つを最大のチャンス到来とみて、それをゲットさせようとするチャレンジなのである。
死のプロセスの8番目は『光明=原初の光、一切空』。
禅のホウ居士とその娘は時を選んで自ら死んだ。十分に準備してそれを捕まえに行った。これは、通常の禅の悟りと言われる見性を狙ったのではなく、それ以上のところを狙ったのだとわかる。
人間の意識には隙間があり、その隙間にチャンスが潜んでいる。そのチャンスはくしゃみなどでも起こるとまで言われている。
求道者にとっては、自殺未遂、臨死体験はその死からの蘇生が肝心な部分ではなく、それを見たか出会ったかが本来はメイン・テーマのはずである。
フランク永井は、この後記憶力の障害などが残ったという。それも現実。臨死体験もチャンスの一つだが、グロフの意識の深化実験などでみるようにはずれも多い。
絶対、永遠不壊を求める者にとっては、そういうリスクも織り込み済みなのだろう。それは精密に起こると聞かされてもどう精密に起こるかは自分で体験しないとわからない。
平昌オリンピックでも、死の恐怖の克服をメイン・テーマとする競技がある。それは、アルペン・スキーの滑降。F1と違って身を守る車体がないが、それでも今日も選手たちはチャレンジしていく。