◎「名」とはカルマ・ヨーガ
ダンテス・ダイジは、老子の悟境は、只管打坐によるものだとみていたが、もう一つ柱があって、老子の「名」とはカルマ・ヨーガであるというもの。
至福千年での人間の生きざまが神を知りながら日常を生きるということであるが、それは禅の十牛図では、第十図入鄽垂手(にってんすいしゅ)となる。
老子第9章持而盈之。
『一杯にしてこれを持つのはやめた方がいい。金属を鍛練してそれを鋭くすると必ず折れるから長く保つことはできない。
金銀珠玉というような宝物が家に一杯満ちていると、盗まれたりして能く守りきることはできない。
また富貴にして驕るというと自分で災難を自分の身に残すことになる。従って、功成り、名遂げた時に身を退くは天の道である。』
『功成り、名遂げた時に身を退く』とは、今なら共産党幹部になって何兆円もの資産を築くことなのだろうが、昔は科挙を通って大官になることが出世の典型であり、老境になったら引退して隠逸をやるというようなイメージでこの文章は捉えられていた。
だが、ダンテス・ダイジは、名遂げるとは、その人生で今生で与えられたカルマを果たすことだと読む。
死を迎えるにあたって、それまでに人生を投げていなければ、カルマを果たすのは当然である。人生には出世するあるいは世間的な自己実現という公的な側面と悟りを開いて悟りを生きるという私的な側面がある。
その両方をコンプリートして初めてカルマの充足となり、死を迎える時節が熟す。
公的な側面は悟り・道(タオ)とは何の関係もないが、人は生きている限り金を稼いだり洗濯したり家事をしたりという面も必ず伴う。
公私混淆してカルマという面はある。これを老子は『名』として語った。
ダンテス・ダイジは、老子の悟境は、只管打坐によるものだとみていたが、もう一つ柱があって、老子の「名」とはカルマ・ヨーガであるというもの。
至福千年での人間の生きざまが神を知りながら日常を生きるということであるが、それは禅の十牛図では、第十図入鄽垂手(にってんすいしゅ)となる。
老子第9章持而盈之。
『一杯にしてこれを持つのはやめた方がいい。金属を鍛練してそれを鋭くすると必ず折れるから長く保つことはできない。
金銀珠玉というような宝物が家に一杯満ちていると、盗まれたりして能く守りきることはできない。
また富貴にして驕るというと自分で災難を自分の身に残すことになる。従って、功成り、名遂げた時に身を退くは天の道である。』
『功成り、名遂げた時に身を退く』とは、今なら共産党幹部になって何兆円もの資産を築くことなのだろうが、昔は科挙を通って大官になることが出世の典型であり、老境になったら引退して隠逸をやるというようなイメージでこの文章は捉えられていた。
だが、ダンテス・ダイジは、名遂げるとは、その人生で今生で与えられたカルマを果たすことだと読む。
死を迎えるにあたって、それまでに人生を投げていなければ、カルマを果たすのは当然である。人生には出世するあるいは世間的な自己実現という公的な側面と悟りを開いて悟りを生きるという私的な側面がある。
その両方をコンプリートして初めてカルマの充足となり、死を迎える時節が熟す。
公的な側面は悟り・道(タオ)とは何の関係もないが、人は生きている限り金を稼いだり洗濯したり家事をしたりという面も必ず伴う。
公私混淆してカルマという面はある。これを老子は『名』として語った。