◎老子 第47章 不出戸知天下
『わざわざ家を出て見ないでも、この世の中というものはわかる。わざわざ窓を開けてみないでも、晴曇風雨はわかる。
反対に世の中を知ろうと思って、世の中に入って行き、晴曇を知ろうと思って、外に出れば出るほど迷いが多くなって、決定ができなくなる。
だから本当の賢い人は、すべてのことにおいて行わずして知り、見ずして名付け、為さずして成る。』
(老子 第47章 不出戸知天下)
※原文:不出戸、知天下、不闚牖、見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人不行而知、不見而名、不爲而成。
最後の部分では、人には行うべきことがあり、名付けるべきことがあり、為すべきことがあるのを前提にしていることがわかる。
行うべきこと、為すべきこととは、平易だが、この名付けるべきことが、特徴的な用語になっている。
老子 第1章 道可道では、
「道の道たるべきは、常(かわ)らざるの道に非ず、名の名たるべきは、常(かわ)らざるの名に非ず」
名の変転する性質を示す。まず無があり、有があるが、名があって天地人など様々な現象に化す。
転々化々する現象そのものの総称をして、名という用語を用いているように思われる。つまり名とは、全体にあっては天機、あるいは天道の運行というべきものであるが、個々人にあっては、履むべき大道であって、それをカルマと見ることができる。
道を踏まえながら行動をとり行う。これぞカルマ・ヨーガである。
『本当の賢い人(聖人)は、すべてのことにおいて行わずして知り、見ずして名付け、為さずして成る』とは、この一なるものアートマンの体感であり、時間空間のない世界であって、これが今ここ。
『わざわざ家を出て見ないでも、この世の中というものはわかる。わざわざ窓を開けてみないでも、晴曇風雨はわかる。
反対に世の中を知ろうと思って、世の中に入って行き、晴曇を知ろうと思って、外に出れば出るほど迷いが多くなって、決定ができなくなる。
だから本当の賢い人は、すべてのことにおいて行わずして知り、見ずして名付け、為さずして成る。』
(老子 第47章 不出戸知天下)
※原文:不出戸、知天下、不闚牖、見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人不行而知、不見而名、不爲而成。
最後の部分では、人には行うべきことがあり、名付けるべきことがあり、為すべきことがあるのを前提にしていることがわかる。
行うべきこと、為すべきこととは、平易だが、この名付けるべきことが、特徴的な用語になっている。
老子 第1章 道可道では、
「道の道たるべきは、常(かわ)らざるの道に非ず、名の名たるべきは、常(かわ)らざるの名に非ず」
名の変転する性質を示す。まず無があり、有があるが、名があって天地人など様々な現象に化す。
転々化々する現象そのものの総称をして、名という用語を用いているように思われる。つまり名とは、全体にあっては天機、あるいは天道の運行というべきものであるが、個々人にあっては、履むべき大道であって、それをカルマと見ることができる。
道を踏まえながら行動をとり行う。これぞカルマ・ヨーガである。
『本当の賢い人(聖人)は、すべてのことにおいて行わずして知り、見ずして名付け、為さずして成る』とは、この一なるものアートマンの体感であり、時間空間のない世界であって、これが今ここ。