◎死の暫往なること
輪廻転生とは、生と死のタッチ アンド リターン。
自分も含めてほとんどの人は、輪廻転生を考え始めるのは、みじめで情けない自分からスタートするのだろうと思う。
だがここでは、輪廻の主体を見るのに、支那の霊界物語と言われる列子から始める。
列子の楊朱篇に輪廻転生を語る部分がある。
『太古の人は、生の暫来なることを知り、死の暫往なることを知る。』
生はどこかから暫し来たのであって、死はどこかへ暫し行くことであると。
この発想では、その「どこか」こそが故郷であるという響きがある。そして、「どこか」こそが永遠の居場所であって、本来の居場所であると。その「どこか」にあっては輪廻転生とは、暫し来たり、暫し行ったりすることで、もともと決定的な問題とすべきことなどではないと。
その「どこか」からとは、チベット死者の書ならば、原初の光であって、ヨーガならば、ニルヴァーナということになる。またそれは、古事記ならば、天御中主神となる。
臨死体験にあっては、生と死を分けるのは三途の川という。三途の川にニルヴァーナが潜んでいると予想するのは、あまりにも荒唐無稽な推論ではあるまいと思う。
◎エクスタシス 夢の夢なる-42
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-31
◎輪廻の主体-1
輪廻転生とは、生と死のタッチ アンド リターン。
自分も含めてほとんどの人は、輪廻転生を考え始めるのは、みじめで情けない自分からスタートするのだろうと思う。
だがここでは、輪廻の主体を見るのに、支那の霊界物語と言われる列子から始める。
列子の楊朱篇に輪廻転生を語る部分がある。
『太古の人は、生の暫来なることを知り、死の暫往なることを知る。』
生はどこかから暫し来たのであって、死はどこかへ暫し行くことであると。
この発想では、その「どこか」こそが故郷であるという響きがある。そして、「どこか」こそが永遠の居場所であって、本来の居場所であると。その「どこか」にあっては輪廻転生とは、暫し来たり、暫し行ったりすることで、もともと決定的な問題とすべきことなどではないと。
その「どこか」からとは、チベット死者の書ならば、原初の光であって、ヨーガならば、ニルヴァーナということになる。またそれは、古事記ならば、天御中主神となる。
臨死体験にあっては、生と死を分けるのは三途の川という。三途の川にニルヴァーナが潜んでいると予想するのは、あまりにも荒唐無稽な推論ではあるまいと思う。
◎エクスタシス 夢の夢なる-42
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-31
◎輪廻の主体-1