◎一から全体へ、そして多へ
何が輪廻転生するのかという疑問に対して、それはカルマであるというのが、ほぼ結論である。いわゆる魂というボディが輪廻転生の主体であろうというのは、肉体人間の生活実感がそのように想像させるのだろうが、先駆者たちは、誰一人それを肯定していない。ボディという乗り物が輪廻するのではないのだ。
よってマンツーマン輪廻というのは、いわば肉体人間の想像の産物に過ぎないのだろうと思う。
そこで、それを産んだ生活実感には、もう一つの生活実感がある。すべてのもの、万物万象が一つながりのものであるという生活実感である。これは七つの身体論でいけば、第六身体にある場合である。これも覚者たちにとっては紛れもない生活実感ではあるが、あまりにも未悟の人たちの想像を超えたものであるがゆえに、トータルでそれを伝えることはせず、多くは断片的に語られている。
それは、あまり俗人のお気に召すような実感ではないからでもある。「天国と地獄の結婚」とか「石ころの心」という語感そのものが人好きがしないが、そういうものなのだろうと思う。
肉体から一つながりのアートマン、本尊、本来の自己、一気、宇宙卵へとは、一から全体へということである。
一から全体へという流れの先に、輪廻転生での一対他、他対一という別の流れが見えてくる。
◎エクスタシス 夢の夢なる-50
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-39
◎一対多、あるいは全体-1
何が輪廻転生するのかという疑問に対して、それはカルマであるというのが、ほぼ結論である。いわゆる魂というボディが輪廻転生の主体であろうというのは、肉体人間の生活実感がそのように想像させるのだろうが、先駆者たちは、誰一人それを肯定していない。ボディという乗り物が輪廻するのではないのだ。
よってマンツーマン輪廻というのは、いわば肉体人間の想像の産物に過ぎないのだろうと思う。
そこで、それを産んだ生活実感には、もう一つの生活実感がある。すべてのもの、万物万象が一つながりのものであるという生活実感である。これは七つの身体論でいけば、第六身体にある場合である。これも覚者たちにとっては紛れもない生活実感ではあるが、あまりにも未悟の人たちの想像を超えたものであるがゆえに、トータルでそれを伝えることはせず、多くは断片的に語られている。
それは、あまり俗人のお気に召すような実感ではないからでもある。「天国と地獄の結婚」とか「石ころの心」という語感そのものが人好きがしないが、そういうものなのだろうと思う。
肉体から一つながりのアートマン、本尊、本来の自己、一気、宇宙卵へとは、一から全体へということである。
一から全体へという流れの先に、輪廻転生での一対他、他対一という別の流れが見えてくる。
◎エクスタシス 夢の夢なる-50
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-39
◎一対多、あるいは全体-1