◎仏像・神像の弊害
仏教でも釈迦入寂後数百年は、仏像はなかった。道教でも当初は神像はなかったが、5世紀末頃から神像が現れた。イスラム教にも神像はない。
古神道は、おかげさまで、神像はない。伊勢神宮内宮参拝時の幔幕が吹き上げられる時の「幕の奥には神像はないのだ」と自覚する時の微妙な気持ちを感ずる人も少なくないのではないか。
行が内側に向くには、神像はかえって邪魔であると感じるのは自然なことと思う。
プロ修行者、出家者であれば、神・仏が自分の外側にあるなどとは思うまいが、そうした素養のない一般市民、俗人にあっては神仏は自分とは別であり、外側にあると誤解する原因になりがちである。
もっとも虚空蔵求聞持法を行ずる堂内にも仏像があったり、ラーマクリシュナのように神像にカーリー女神を見たりするというケースもあるので、ひたすら否定というわけにもいかない。
だが、この自分で冥想をするのが求められる時代に仏像・神像は、弊害の方が大きいと感じられる時期に入ってきたのではないだろうか。
仏教でも釈迦入寂後数百年は、仏像はなかった。道教でも当初は神像はなかったが、5世紀末頃から神像が現れた。イスラム教にも神像はない。
古神道は、おかげさまで、神像はない。伊勢神宮内宮参拝時の幔幕が吹き上げられる時の「幕の奥には神像はないのだ」と自覚する時の微妙な気持ちを感ずる人も少なくないのではないか。
行が内側に向くには、神像はかえって邪魔であると感じるのは自然なことと思う。
プロ修行者、出家者であれば、神・仏が自分の外側にあるなどとは思うまいが、そうした素養のない一般市民、俗人にあっては神仏は自分とは別であり、外側にあると誤解する原因になりがちである。
もっとも虚空蔵求聞持法を行ずる堂内にも仏像があったり、ラーマクリシュナのように神像にカーリー女神を見たりするというケースもあるので、ひたすら否定というわけにもいかない。
だが、この自分で冥想をするのが求められる時代に仏像・神像は、弊害の方が大きいと感じられる時期に入ってきたのではないだろうか。