◎人生を投げない情熱
和歌の古今伝授。和歌の奥義であり、それはもともと二条家の秘事であったが、絶えたという話もあり、伝授されているという説もある。
だが、明治から昭和の初期に活躍した出口王仁三郎は、一日に何万歌も詠んでおり、世間からは和歌の奥義をつかまなければ、そんな芸当はできないものと見られていた。
出口王仁三郎は、そのこつを随筆月鏡で明かしており、「其の底に淡い恋心が流れて居なければならないもの」としている。
悟りというのも似たところがあるのではないか。大半の人間は自分の死や危機に際して、単純に自分の力ではどうしようもないものとして、あっさり折り合ってしまって、それ以上考えずに蓋をして鍵をかけ、その鍵もどこかへ捨ててしまう。
ところが、ダンテス・ダイジは、人をその人自身に変えさせる原動力は、生きることへの情熱であり、死に際してすらその情熱が人に「本当の愛しさ」を感じさせ、無限の広がりを経験させる、というようなことを書いている(素直になる/渡辺郁夫編P55~56参照)
「本当の愛しさ」とは、大慈大悲=mercyのことなのだが、要するにそれを感じる人間でなければ、無限の広がりなる本当の自分たるアートマンに出会えはしないということ。
自分にとって大事な人の死、あるいは大災害や突然の事故と遭遇することは、どうしてもこの世が仮の姿であることを認めざるを得ないところまで人を追い込む。
その地点で、大半の人は元の価値感の世界(迷い、無明)に戻ろうとするが、その無常で味気ない世界、人生のどうしようもなさを簡単に認める人は少ない。その少数の人の特徴が「本当の愛しさ」を感得しているということ。
出口王仁三郎の「淡い恋心」とダンテス・ダイジの「本当の愛しさ」は別物とは思えないところがある。
和歌の古今伝授。和歌の奥義であり、それはもともと二条家の秘事であったが、絶えたという話もあり、伝授されているという説もある。
だが、明治から昭和の初期に活躍した出口王仁三郎は、一日に何万歌も詠んでおり、世間からは和歌の奥義をつかまなければ、そんな芸当はできないものと見られていた。
出口王仁三郎は、そのこつを随筆月鏡で明かしており、「其の底に淡い恋心が流れて居なければならないもの」としている。
悟りというのも似たところがあるのではないか。大半の人間は自分の死や危機に際して、単純に自分の力ではどうしようもないものとして、あっさり折り合ってしまって、それ以上考えずに蓋をして鍵をかけ、その鍵もどこかへ捨ててしまう。
ところが、ダンテス・ダイジは、人をその人自身に変えさせる原動力は、生きることへの情熱であり、死に際してすらその情熱が人に「本当の愛しさ」を感じさせ、無限の広がりを経験させる、というようなことを書いている(素直になる/渡辺郁夫編P55~56参照)
「本当の愛しさ」とは、大慈大悲=mercyのことなのだが、要するにそれを感じる人間でなければ、無限の広がりなる本当の自分たるアートマンに出会えはしないということ。
自分にとって大事な人の死、あるいは大災害や突然の事故と遭遇することは、どうしてもこの世が仮の姿であることを認めざるを得ないところまで人を追い込む。
その地点で、大半の人は元の価値感の世界(迷い、無明)に戻ろうとするが、その無常で味気ない世界、人生のどうしようもなさを簡単に認める人は少ない。その少数の人の特徴が「本当の愛しさ」を感得しているということ。
出口王仁三郎の「淡い恋心」とダンテス・ダイジの「本当の愛しさ」は別物とは思えないところがある。