◎神が神自身を神する
身心脱落とは、即時のニルヴァーナである。
ダンテス・ダイジの定義はもっと慎重であって、
『坐禅によるニルヴァーナは、肉体と意識が虚空に消滅していくことから始まり、時間・空間・物質・現象を、無限定者である私自身が戯れている自覚を経過し、そして、ついに有限-無限、相対-絶対が本来存在していない無相なる私自身に目覚めることである』
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ/森北出版P112から引用)
禅には鈴木大拙の即非というような言葉があり、直ぐの悟りなのだとわかったような気分にさせてくれる。だが、この定義を見ると、即時というわりには、段階的なものであると説明している。
すなわち
1.肉体と意識が虚空に消滅
2.時間・空間・物質・現象を、無限定者である私自身が戯れている自覚
3.有限-無限、相対-絶対が本来存在していない無相なる私自身に目覚める
この3段階である。
即時というのは時間の概念であるが、ダンテス・ダイジは、その体験とはいえない体験について
『私はすべてのすべてである私自身であったのだ。宇宙との合一だとか、神秘体験だとか、霊的体験だとか、そんなマンガチックなものでは全然なかった。』(上掲書P114から引用)
と、時間とは全く関係のないものであることを示している。
ダンテス・ダイジは、『わからん』という言葉で感想を総括している。神秘体験を超えるというのは、そういうものなのだろう。
世の中にはスポーツとか冒険シーンで極限に挑むというものがあるが、時間・空間・物質・現象を超えるというは、まさに人間の本源的チャレンジ精神を駆り立てる何かがある。(だが、それだけで進むと叩き落されるという説話も、パエトーンの天の車やバベルの塔の崩壊の話のように残っているのではあるが。)
◎エクスタシス 夢の夢なる-86
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-75
◎生の世界から死をクリア-4
身心脱落とは、即時のニルヴァーナである。
ダンテス・ダイジの定義はもっと慎重であって、
『坐禅によるニルヴァーナは、肉体と意識が虚空に消滅していくことから始まり、時間・空間・物質・現象を、無限定者である私自身が戯れている自覚を経過し、そして、ついに有限-無限、相対-絶対が本来存在していない無相なる私自身に目覚めることである』
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ/森北出版P112から引用)
禅には鈴木大拙の即非というような言葉があり、直ぐの悟りなのだとわかったような気分にさせてくれる。だが、この定義を見ると、即時というわりには、段階的なものであると説明している。
すなわち
1.肉体と意識が虚空に消滅
2.時間・空間・物質・現象を、無限定者である私自身が戯れている自覚
3.有限-無限、相対-絶対が本来存在していない無相なる私自身に目覚める
この3段階である。
即時というのは時間の概念であるが、ダンテス・ダイジは、その体験とはいえない体験について
『私はすべてのすべてである私自身であったのだ。宇宙との合一だとか、神秘体験だとか、霊的体験だとか、そんなマンガチックなものでは全然なかった。』(上掲書P114から引用)
と、時間とは全く関係のないものであることを示している。
ダンテス・ダイジは、『わからん』という言葉で感想を総括している。神秘体験を超えるというのは、そういうものなのだろう。
世の中にはスポーツとか冒険シーンで極限に挑むというものがあるが、時間・空間・物質・現象を超えるというは、まさに人間の本源的チャレンジ精神を駆り立てる何かがある。(だが、それだけで進むと叩き落されるという説話も、パエトーンの天の車やバベルの塔の崩壊の話のように残っているのではあるが。)
◎エクスタシス 夢の夢なる-86
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-75
◎生の世界から死をクリア-4