◎「真の沈黙」「生きた心」
只管打坐のニルヴァーナとは、即時のニルヴァーナである。
只管打坐は、ステップなどなくそのものズバリを生きるということなので、何のことか極めてわかりにくい。
道元と師の天童如浄の会話では、そのものズバリとは、身心脱落、脱落身心、脱落脱落と一語に限定していないので、わかりにくい。
如浄は、「参禅とは身心脱落である。焼香、礼拝、念仏、修懺、看経ではなく、ただただ打坐すること」と言うから、只管打坐というポスチャーが悟りだなどという誤解が生じた。
道元は、「諸縁を放捨し、万事を休息し、善悪を思わず、心意識を動かさず、念想観にこだわらず、仏になろうともせず、坐臥を脱落すべし。」と、それは日常からの脱落だが、単純な「脱落」ではないことを戒めている。
臨済の師黄檗は、「心も世界も忘れてしまうことが悟りだ」(心境双忘が即ち真法)と説明する。
これに対して、クリシュナムルティは、「真の沈黙」「生きた心」がそれだとするが、真の沈黙は測ることのできない時間を超えた状態に達することに相当し、生きた心とは、静かな心であり、生きた心は中心も空間も時間ももたない心であって、唯一の真理、唯一の真実であるなどと説明している。
身心脱落は、ステップなしのニルヴァーナだから、そこではすべてがニルヴァーナの展開となるので、なんでもいい、身心脱落、脱落身心、脱落脱落などというやりとりが出てくるのだと思う。
◎エクスタシス 夢の夢なる-85
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-74
◎生の世界から死をクリア-3
只管打坐のニルヴァーナとは、即時のニルヴァーナである。
只管打坐は、ステップなどなくそのものズバリを生きるということなので、何のことか極めてわかりにくい。
道元と師の天童如浄の会話では、そのものズバリとは、身心脱落、脱落身心、脱落脱落と一語に限定していないので、わかりにくい。
如浄は、「参禅とは身心脱落である。焼香、礼拝、念仏、修懺、看経ではなく、ただただ打坐すること」と言うから、只管打坐というポスチャーが悟りだなどという誤解が生じた。
道元は、「諸縁を放捨し、万事を休息し、善悪を思わず、心意識を動かさず、念想観にこだわらず、仏になろうともせず、坐臥を脱落すべし。」と、それは日常からの脱落だが、単純な「脱落」ではないことを戒めている。
臨済の師黄檗は、「心も世界も忘れてしまうことが悟りだ」(心境双忘が即ち真法)と説明する。
これに対して、クリシュナムルティは、「真の沈黙」「生きた心」がそれだとするが、真の沈黙は測ることのできない時間を超えた状態に達することに相当し、生きた心とは、静かな心であり、生きた心は中心も空間も時間ももたない心であって、唯一の真理、唯一の真実であるなどと説明している。
身心脱落は、ステップなしのニルヴァーナだから、そこではすべてがニルヴァーナの展開となるので、なんでもいい、身心脱落、脱落身心、脱落脱落などというやりとりが出てくるのだと思う。
◎エクスタシス 夢の夢なる-85
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-74
◎生の世界から死をクリア-3