◎絶対的な孤独
芭蕉の幻住庵記には、ここ5、6年旅心が日常の心となってしまって、深川の芭蕉庵も住み捨ててしまい、庵のないのを庵とし、どこにも住まいのないことをもって住まいとしている、というくだりがある。(無庵を庵とし、無住を住とす)
漂泊と言うのは簡単だが、覚者の代表的心境に絶対的な孤独というのがある。
イエスもそう。
マタイによる福音書8章20節
『イエスはその人に言われた、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。されど、人の子に枕する所なし」』
ダンテス・ダイジの詩にもある。
かつて、南極点や北極点を若者たちが貧弱な装備と犬ぞりで目指したが、何も知らぬ俗人が大悟覚醒を目指すというのはそのようなものなのだろう。
それについていろいろ言われている情報を集めて次第に近づいていく。
一足飛びに飛び込んでいける人も昔からいたが、それは数の上からいえば極レアで、誰もができるものではなかった。
万人が悟るというのは、そういうものなのだろうと思う。
芭蕉の幻住庵記には、ここ5、6年旅心が日常の心となってしまって、深川の芭蕉庵も住み捨ててしまい、庵のないのを庵とし、どこにも住まいのないことをもって住まいとしている、というくだりがある。(無庵を庵とし、無住を住とす)
漂泊と言うのは簡単だが、覚者の代表的心境に絶対的な孤独というのがある。
イエスもそう。
マタイによる福音書8章20節
『イエスはその人に言われた、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。されど、人の子に枕する所なし」』
ダンテス・ダイジの詩にもある。
かつて、南極点や北極点を若者たちが貧弱な装備と犬ぞりで目指したが、何も知らぬ俗人が大悟覚醒を目指すというのはそのようなものなのだろう。
それについていろいろ言われている情報を集めて次第に近づいていく。
一足飛びに飛び込んでいける人も昔からいたが、それは数の上からいえば極レアで、誰もができるものではなかった。
万人が悟るというのは、そういうものなのだろうと思う。