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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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主観と客観

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◎カルトや邪教、邪境にあっても悟りを開くことは可能

OSHOバグワンが、主観と客観について、説明する。
『対象と主観の認識は、悟った者でも、
悟っていない者でも同じだ。
しかし前者には偉大な点が一つある。
それは、つねに主観的な姿勢の中にとどまり、
物事の中に失われないことだ。』
ヴィギャンバイラブタントラ10空の哲学/OSHOバグワン/市民出版社 P17から引用)

これは、タントリズムの経典ではあるが、あらゆる宗教に共通な要素が語られている。

例えば臨済には、こんな言説がある。
『師臨済は夜の説法で、修行者達に教えて云った、
「私は有る時は人を奪って境を奪わない(奪人不奪境)。
有る時は境を奪って人を奪わない(奪境不奪人)。
有る時は人境ともに奪う(人境倶奪)。
有る時は人境ともに奪わない(人境倶不奪)」。』

悟りというものを自分と自分を取り巻く状況という2要素で考える。ヴィギャンバイラブタントラでは、自分は、主観で、自分を取り巻く状況は客観。
臨済にあっては、自分は、「人」で、自分を取り巻く状況は「境」。

人は、自分を変えて、状況を打破したいなどと思う。今ビジネス・パーソンの間では、マインドフルネスとかフルフィルメントとか瞑想みたいなのが流行っていると聞き、やってみたりする。

そこで精神に変容が起きない場合、瞑想の座法が悪いだの、先生が悟っていないからだの、座る時間帯や空調が悪いせいだの、座っている場所が悪いだの、体調が整っていないだの、一緒にやっている仲間がダメだの、運営が悪いだの、いろいろな理由を思いつくものだ。

これが、「状況」であり、「境」。

本気でやっているのか、生死を賭しているのか、目的をもって坐っているのではないかなど突っ込みどころは満載である。

ところが、気の利いた本物の聖者ならたとえ、カルトや邪教、邪境にあっても悟りを開くことは可能だと請け合うものだ。(これは大いに誤解を招く発言だが、そんなものだ。OSHOバグワンもそう言っている→ヴィギャンバイラブタントラ10空の哲学/OSHOバグワン/市民出版社 P11)

伊勢神宮の伝統が消えそうだった時に、その道灯を守ったのは神道からみれば異教徒の仏教の尼さんだった。

その本気度の純粋さがまず問われる。


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