◎死にはせぬ どこへも行かぬ
一休道歌。今ここをこれほど端的に示している歌はない。
死にはせぬ どこへも行かぬ ここに居る
たづねはするな ものは言はぬぞ
死ぬことはないので、第六身体のアートマン以上。どこへも行かずここにいるので、今ここ。そこはどこだ、それは何だと尋ねても言葉にはできない。
時間も空間もあらゆる物質も他人もひとつながりになっているもの。一気通貫。
それを社会の常識人は、神秘体験と呼ぶが、体験者にとっては、体験とは言えない体験である。体験している人がいないから。
もともと生まれてきてなどいないから、死ぬことはない。私は、来ることもなく、去ることもなくここにいる。
さらに一休道歌。
ひとり来て ひとり帰るも 迷いなり
来たらず去らぬ 道を教えん
私は独りで、孤独だが、一人で生まれ来るということも、一人で死に去るということもなく、それは妄想である。死すらも思い込みであり、観念の一つにすぎない。生まれたというのも、思い込み。どこからも来ることもなく、どこへも去ることもない道。
これも世間では神秘体験という。非二元とは、世にいう神秘体験である。先年タミフルで神秘体験が起こったらしき人が大勢出て、政府とは、一方では麻薬を取り締まりつつ荒っぽいことをするものだと思った。
神秘体験もピンキリで、ほとんどがゴミ体験で本物は稀。チャネリングもほとんどがカスで本物は稀。
どこからも来ることもなく、どこへも去ることもない道。われわれは、道ではないものを「現実」と思い込んでいるが、一休は、そんなものは現実ではなく、あらゆるものが一つながりになっているものだけが現実であり、それを道と呼ぶ。非二元こそが現実である。
もっと一休道歌。
なにごとも みな偽りの 世なりけり
死ぬるといふも まことならねば
死は幻想である。
また一休道歌。
世の中は食うて 箱して 寝て起きて
さてその後は 死ぬるばかりよ
※箱=くそ
生も死も嘘だという現実認識にあって、この歌がある。この歌だけ単発で読めば、人それぞれに勝手な解釈をしようというもの。
一休道歌。今ここをこれほど端的に示している歌はない。
死にはせぬ どこへも行かぬ ここに居る
たづねはするな ものは言はぬぞ
死ぬことはないので、第六身体のアートマン以上。どこへも行かずここにいるので、今ここ。そこはどこだ、それは何だと尋ねても言葉にはできない。
時間も空間もあらゆる物質も他人もひとつながりになっているもの。一気通貫。
それを社会の常識人は、神秘体験と呼ぶが、体験者にとっては、体験とは言えない体験である。体験している人がいないから。
もともと生まれてきてなどいないから、死ぬことはない。私は、来ることもなく、去ることもなくここにいる。
さらに一休道歌。
ひとり来て ひとり帰るも 迷いなり
来たらず去らぬ 道を教えん
私は独りで、孤独だが、一人で生まれ来るということも、一人で死に去るということもなく、それは妄想である。死すらも思い込みであり、観念の一つにすぎない。生まれたというのも、思い込み。どこからも来ることもなく、どこへも去ることもない道。
これも世間では神秘体験という。非二元とは、世にいう神秘体験である。先年タミフルで神秘体験が起こったらしき人が大勢出て、政府とは、一方では麻薬を取り締まりつつ荒っぽいことをするものだと思った。
神秘体験もピンキリで、ほとんどがゴミ体験で本物は稀。チャネリングもほとんどがカスで本物は稀。
どこからも来ることもなく、どこへも去ることもない道。われわれは、道ではないものを「現実」と思い込んでいるが、一休は、そんなものは現実ではなく、あらゆるものが一つながりになっているものだけが現実であり、それを道と呼ぶ。非二元こそが現実である。
もっと一休道歌。
なにごとも みな偽りの 世なりけり
死ぬるといふも まことならねば
死は幻想である。
また一休道歌。
世の中は食うて 箱して 寝て起きて
さてその後は 死ぬるばかりよ
※箱=くそ
生も死も嘘だという現実認識にあって、この歌がある。この歌だけ単発で読めば、人それぞれに勝手な解釈をしようというもの。