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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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"釈迦は何を悟ったのか"とググる

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◎自分で気づこうとする訓練の少ない時代

大悟覚醒した人間は極めて少なく、そうした人間の大半は、生き延びることはさらに少ない

その上に、生存し得た覚者の中でも、グル・マスターとして他人にその教えを説く者は更に一握りとなる。

禅家で、大悟した途端に、仏の何たるかを知ったからには、一人でも半人でもそういう水準に達した弟子を出さなければならないというプレッシャーをかけられることがある。

これがうまくいけば、大悟者はネズミ算式に増えていっているはずなのだが、そうはなっていない。例えば臨済の盟友普化は、悟後にまともな修行はしていなかったし、後進の者に教えを説くというようなことはしていなかったように思われる。また一休だって、弟子もいて説法もしたが、専門道場で後進を育成するということはほとんどやらなかった。

そもそも悟った人には、エゴから来る何かをせねばならないという決意はあり得ない。彼が決定を下すことはない。
後進を育成する、あるいは一箇、半箇を打ち出すというようなことは、誰かから強制されてやるようなことではなく、天機・天命を感じてそれに従う種類のことなのだろうと思う。

光明を得た者にはエゴがないから、自分勝手な意思決定はなくなる。あるがまま、手を放したまま、目標もあこがれもない。だが個性は残る。

大悟した者には、教団に止まって後継者を残そうとする組織宗教適合型の個性の人物もいれば、一休、寒山拾得、桃水など、組織宗教を出て行雲流水、風狂するタイプの2種がある。どちらかを選ぶのは、誰かの強制ではなく自ずと決まっているのだろうと思う。

Googleで“釈迦”を検索しようとすると”釈迦は何を悟ったのか”という選択候補が真っ先に出てくる。これは、この時代の人々がいかに自分に向き合っていないかの証拠の一つ。何かを知りたければネットや他人に訊くというのは、悪い癖。金を出せば教えてくれるとか、良いコネがあれば聞けるとか、そういう類のことではない。

水を飲むには、他人が飲むのではなく、自分で飲まなければならないとまず気づかなければならない。そういう訓練のあまりに少ない時代ではある。冷暖自知す。

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