◎性エネルギーとジャンプ・アウト
セクシュアル・メディテーションは、まず求道心が双方にないと成立しない。不倫であっては成立しない。二人に愛がないと成立しない。
何でも語ってくれるOSHOバグワンの片言には、時に性的ヨーガの片鱗を示すことがあるのだが、内なる女性とか、内なる男性の話にはぐらかされたり、性的ヨーガには何種類かあるのではないかと推測される発言がある。
そこで気にすべきなのは、セクシュアル・メディテーションというのは、男性のための冥想手法ではないのかということである。
密教では、明妃と結合した男性の交合像が堂々と存在する。これぞ、それが男性側の冥想法であるというシンボルであって、女性の側の悟りが主眼であれば、女性が顔を見せたり、台座の向きが女性が正面を向く形で作られているのではないだろうか。
そこで女性の窮極と男性の窮極は違うのではないかということ。このことは100年前以前の男性優位の社会では、求道の世界では暗黙の了解であった。あたりまえすぎて誰も言わなかった。ところが、男女平等の昨今では極めて言いにくい事柄となっている。
でもこのことは、70億人総冥想時代にあっては、ある程度オープンにしないと、いろいろな問題が起きてくるように思う。
性のオーガズムでは、思考は消え、時間は止まり、自分は相手に溶け込み自我はない。ここから冥想が始まる。(神秘家の道/和尚/市民出版社P436)
だが一般に男性のオーガズム(感覚)は女性ほどでなく、そこまで入れ込まない。だからOSHOバグワンの語る性的オーガズムの無我、無時間、無思考は、男性には感覚ではなく、洞察されるものなのだろうと思う。そこで冥想するというのは、いわば当然の流れ。
性エネルギーは、出産の源流でもあり人をこの世から脱出させるクンダリーニのエネルギー・コードでもあって、些細な快楽の道具などではない。
ライヒもOSHOバグワンも性的抑圧をなくそうと主張したが、それは、性エネルギーという膨大なエネルギーを自らのジャンプ・アウトに向けていけるという洞察があってのことだったと思うが、世間はまず理解してくれなかったし、OSHOバグワンのコミューンもそこまで成熟することはなかった。
セクシュアル・メディテーションは、まず求道心が双方にないと成立しない。不倫であっては成立しない。二人に愛がないと成立しない。
何でも語ってくれるOSHOバグワンの片言には、時に性的ヨーガの片鱗を示すことがあるのだが、内なる女性とか、内なる男性の話にはぐらかされたり、性的ヨーガには何種類かあるのではないかと推測される発言がある。
そこで気にすべきなのは、セクシュアル・メディテーションというのは、男性のための冥想手法ではないのかということである。
密教では、明妃と結合した男性の交合像が堂々と存在する。これぞ、それが男性側の冥想法であるというシンボルであって、女性の側の悟りが主眼であれば、女性が顔を見せたり、台座の向きが女性が正面を向く形で作られているのではないだろうか。
そこで女性の窮極と男性の窮極は違うのではないかということ。このことは100年前以前の男性優位の社会では、求道の世界では暗黙の了解であった。あたりまえすぎて誰も言わなかった。ところが、男女平等の昨今では極めて言いにくい事柄となっている。
でもこのことは、70億人総冥想時代にあっては、ある程度オープンにしないと、いろいろな問題が起きてくるように思う。
性のオーガズムでは、思考は消え、時間は止まり、自分は相手に溶け込み自我はない。ここから冥想が始まる。(神秘家の道/和尚/市民出版社P436)
だが一般に男性のオーガズム(感覚)は女性ほどでなく、そこまで入れ込まない。だからOSHOバグワンの語る性的オーガズムの無我、無時間、無思考は、男性には感覚ではなく、洞察されるものなのだろうと思う。そこで冥想するというのは、いわば当然の流れ。
性エネルギーは、出産の源流でもあり人をこの世から脱出させるクンダリーニのエネルギー・コードでもあって、些細な快楽の道具などではない。
ライヒもOSHOバグワンも性的抑圧をなくそうと主張したが、それは、性エネルギーという膨大なエネルギーを自らのジャンプ・アウトに向けていけるという洞察があってのことだったと思うが、世間はまず理解してくれなかったし、OSHOバグワンのコミューンもそこまで成熟することはなかった。