◎刹那
人間の意識の連続の間には隙間があるという。
七つの身体のうち、時間のあるボディは、第一身体肉体から第五身体コーザル体まで。一方時間のない身体は、第六身体アートマンから第七身体ニルヴァーナである。
この最初の五身体が同時並行に存在するものと仮定して、クンダリーニ上昇にみるように次々にボディ間を移転する場合、例えば、肉体からアストラル体に行く所要時間は何秒なのだろうか。
仏教には刹那という概念がある。指を弾く時間の1/65を刹那とする説や1/75を刹那とする説がある。この刹那の間に発生と消滅があるという考え方もあり、なんとなれば消滅とは(時)が過ぎ去っていくことだとする。
各ボディ間の移動に時間がかかるとすれば、意識が入っていない場合のボディとは何か?本当に並行して存在しているのか?などの疑問がわき起こる。
ルドルフ・シュタイナーを読むと、夢を見る時、体外離脱するというが、肉体から離脱しきるまで何秒なのか。
アストラル・トリップでは、瞬時に思った場所に行けるなどと言う。
また第五以下の時間のある身体から時間のない身体に移動するには時間がかかるのかという疑問も出る。
ボディと別次元のボディ間の移動時間も重要な疑問だが、その一方で意識の連続と連続の間の隙間が何秒かという疑問も重要ではある。
意識は生であり、隙間を無意識とみれば隙間は死である。こういうのをもって刹那の間に意識も生滅ありと見たのかもしれない。
また時計などで、デジタル計測できない時間をどう図るのか。エーテル体という半物資は半物質だから物質による計測の手段はあるかもしれない。
だが、アストラル体以上の非物質を物質で計時することはできない。
そうするとアストラル体以上を計時する手段は、非物質である精神か意識に万人に共通のものがあって初めて計時できるのだろう思う。
だが、連続的な予言の当たり外れとか、実現の順序から推察するに、順序が前後して入れ替わったり、起きる事象そのものが微妙に変わったりということはあるものなので、
計時そのものの必要性とか意義自体が問われるということはある。
しかしながら、次の時代の科学は、この辺をも突破口にしないと物質のくびきを逃れることはできない。
人間の意識の連続の間には隙間があるという。
七つの身体のうち、時間のあるボディは、第一身体肉体から第五身体コーザル体まで。一方時間のない身体は、第六身体アートマンから第七身体ニルヴァーナである。
この最初の五身体が同時並行に存在するものと仮定して、クンダリーニ上昇にみるように次々にボディ間を移転する場合、例えば、肉体からアストラル体に行く所要時間は何秒なのだろうか。
仏教には刹那という概念がある。指を弾く時間の1/65を刹那とする説や1/75を刹那とする説がある。この刹那の間に発生と消滅があるという考え方もあり、なんとなれば消滅とは(時)が過ぎ去っていくことだとする。
各ボディ間の移動に時間がかかるとすれば、意識が入っていない場合のボディとは何か?本当に並行して存在しているのか?などの疑問がわき起こる。
ルドルフ・シュタイナーを読むと、夢を見る時、体外離脱するというが、肉体から離脱しきるまで何秒なのか。
アストラル・トリップでは、瞬時に思った場所に行けるなどと言う。
また第五以下の時間のある身体から時間のない身体に移動するには時間がかかるのかという疑問も出る。
ボディと別次元のボディ間の移動時間も重要な疑問だが、その一方で意識の連続と連続の間の隙間が何秒かという疑問も重要ではある。
意識は生であり、隙間を無意識とみれば隙間は死である。こういうのをもって刹那の間に意識も生滅ありと見たのかもしれない。
また時計などで、デジタル計測できない時間をどう図るのか。エーテル体という半物資は半物質だから物質による計測の手段はあるかもしれない。
だが、アストラル体以上の非物質を物質で計時することはできない。
そうするとアストラル体以上を計時する手段は、非物質である精神か意識に万人に共通のものがあって初めて計時できるのだろう思う。
だが、連続的な予言の当たり外れとか、実現の順序から推察するに、順序が前後して入れ替わったり、起きる事象そのものが微妙に変わったりということはあるものなので、
計時そのものの必要性とか意義自体が問われるということはある。
しかしながら、次の時代の科学は、この辺をも突破口にしないと物質のくびきを逃れることはできない。