◎メンタル体トリップ
出口王仁三郎は、人間を霊と肉に区分して説明する。
これは天人にコンタクトできていることから、いくつかある体外離脱中のメンタル体トリップだと思う。
霊界物語第47巻第一一章手苦駄女から
『人間は如何にして肉体を脱離し、精霊界に入るかと云ふに、此時の人間は睡眠にも居らず、覚醒にもあらざる一種異様の情態に居るものであつて、此情態に在る時は、其人間は、只自分は充分に覚醒して居るものとのみ思うて居るものである。而して此際に於ける諸々の感覚は醒々として、恰も肉体の最も覚醒せる時に少しも変りはないのである。
五官の感覚も、四肢五体の触覚も特に精妙となることは肉体覚醒時の諸感覚や触覚の到底及ばざる所である。此情態にあつて、天人及び精霊を見る時は、其精気凛々として活躍するを認むべく、又彼等の言語をも明瞭に聞く事を得らるるのである。
尚も不可思議とすべきは、彼等天人及び精霊に親しく接触し得ることである。此故は人間肉体に属するもの、少しも此間に混入し来らないからである。此情態を呼んで霊界にては肉体離脱の時と云ひ、現界より見ては之を死と称するのである。
此時人間は其肉体の中に自分の居る事を覚えず、又其肉体の外に出て居ることをも覚えないものである。』
さらに呼吸が想念と連動するのは、OSHOバグワンの所説だが、同じクンダリーニ・ヨーギとして出口王仁三郎も同じことを言っている。
(上掲巻から)
『精霊と呼吸及心臓の鼓動との間に内的交通なるものがある。そは精霊の想念とは呼吸と相通じ、其愛より来る情動は心臓と通ずる故である。夫だから肺臓心臓の活動が全く止む時こそ、霊と肉とが忽ち分離する時である。肺臓の呼吸と心臓の鼓動とは、人間の本体たる精霊其ものを繋ぐ所の命脈であつて、此二つの官能を破壊する時は精霊は忽ちおのれに帰り、独立し復活し得るのである。』
この説明は、ある意味で物理法則的ではあるが、出口王仁三郎の云うところの人間の内分は、大神とつながっていることが条件である(内流)。神を知って、初めて肉体離脱この説明は、ある意味で物理法則的ではあるが、出口王仁三郎の云うところの人間の内分(精神、生活態度)は、大神とつながっていることが条件である(内流)。神を知って、初めて霊肉離脱なのである。
昨今悟っていない人が多くなりすぎて、この世には地獄的現実が現出されているが、まず人間は神知ることである。
出口王仁三郎は、人間を霊と肉に区分して説明する。
これは天人にコンタクトできていることから、いくつかある体外離脱中のメンタル体トリップだと思う。
霊界物語第47巻第一一章手苦駄女から
『人間は如何にして肉体を脱離し、精霊界に入るかと云ふに、此時の人間は睡眠にも居らず、覚醒にもあらざる一種異様の情態に居るものであつて、此情態に在る時は、其人間は、只自分は充分に覚醒して居るものとのみ思うて居るものである。而して此際に於ける諸々の感覚は醒々として、恰も肉体の最も覚醒せる時に少しも変りはないのである。
五官の感覚も、四肢五体の触覚も特に精妙となることは肉体覚醒時の諸感覚や触覚の到底及ばざる所である。此情態にあつて、天人及び精霊を見る時は、其精気凛々として活躍するを認むべく、又彼等の言語をも明瞭に聞く事を得らるるのである。
尚も不可思議とすべきは、彼等天人及び精霊に親しく接触し得ることである。此故は人間肉体に属するもの、少しも此間に混入し来らないからである。此情態を呼んで霊界にては肉体離脱の時と云ひ、現界より見ては之を死と称するのである。
此時人間は其肉体の中に自分の居る事を覚えず、又其肉体の外に出て居ることをも覚えないものである。』
さらに呼吸が想念と連動するのは、OSHOバグワンの所説だが、同じクンダリーニ・ヨーギとして出口王仁三郎も同じことを言っている。
(上掲巻から)
『精霊と呼吸及心臓の鼓動との間に内的交通なるものがある。そは精霊の想念とは呼吸と相通じ、其愛より来る情動は心臓と通ずる故である。夫だから肺臓心臓の活動が全く止む時こそ、霊と肉とが忽ち分離する時である。肺臓の呼吸と心臓の鼓動とは、人間の本体たる精霊其ものを繋ぐ所の命脈であつて、此二つの官能を破壊する時は精霊は忽ちおのれに帰り、独立し復活し得るのである。』
この説明は、ある意味で物理法則的ではあるが、出口王仁三郎の云うところの人間の内分は、大神とつながっていることが条件である(内流)。神を知って、初めて肉体離脱この説明は、ある意味で物理法則的ではあるが、出口王仁三郎の云うところの人間の内分(精神、生活態度)は、大神とつながっていることが条件である(内流)。神を知って、初めて霊肉離脱なのである。
昨今悟っていない人が多くなりすぎて、この世には地獄的現実が現出されているが、まず人間は神知ることである。