◎みろくの世への征戦 幾人か生還できる
霊界物語の『入蒙記 霊界物語特別編』は、81巻の霊界物語中で番外に位置し、それだけで重要性がわかるもの。
だが読んでみると、出口王仁三郎と植芝盛平一行は、パインタラで銃殺寸前まで行って奇跡的に助かったとか、このツアーで植芝盛平は、敵の銃弾の来る前に光の玉がくるので、それでもって銃弾を見切ったなどという、冒険活劇的エピソードに目を奪われがちである。
だが、入蒙記を全体として見れば、出口王仁三郎一行6名が、モンゴルに入り、奉天からハロンアルシャン付近まで北上し、パインタラ経由で4か月で帰国したという物語ではあるが、重要なポイントが隠されている。
入蒙中は戦乱に継ぐ戦乱。このモンゴル・ツアーの後援者は、張作霖と並ぶ馬賊の頭目盧占魁だったが、結局このツアーの時期に張作霖の手で数千の将兵諸共殲滅された。
この入蒙を支援してくれた支那人のほとんどが生命を落としてしまったのだ。
これを見ると、このモンゴルツアーでの生還率は、1%にも満たない。これは何を意味するかというと出口王仁三郎の型出し御神業ではあるが、残った人間は2%、3%どころではないという示唆ではある。
入蒙記は、責付出獄中を推してモンゴルに入った出口王仁三郎一行だけは、数々の冒険も行って、奇跡的に生還できて万々歳みたいな書きぶりだが、実は大量殺戮を経てみろくの世に入れたのは、実に厳しい確率だったという暗喩でもある。
これが、『入蒙記 霊界物語特別編』が天祥地瑞でもない別枠に置かれている理由なのだろうと思う。
このことは、植芝盛平の高弟の砂泊兼基『合気道開祖植芝盛平』を読んで気がついた。
ツアーのスタート日が2月12日であって、ダンテス・ダイジとのリンクを連想する人もいるだろう。本田親徳⇒出口王仁三郎⇒ダンテス・ダイジという流れはあるのだと思う。
霊界物語の『入蒙記 霊界物語特別編』は、81巻の霊界物語中で番外に位置し、それだけで重要性がわかるもの。
だが読んでみると、出口王仁三郎と植芝盛平一行は、パインタラで銃殺寸前まで行って奇跡的に助かったとか、このツアーで植芝盛平は、敵の銃弾の来る前に光の玉がくるので、それでもって銃弾を見切ったなどという、冒険活劇的エピソードに目を奪われがちである。
だが、入蒙記を全体として見れば、出口王仁三郎一行6名が、モンゴルに入り、奉天からハロンアルシャン付近まで北上し、パインタラ経由で4か月で帰国したという物語ではあるが、重要なポイントが隠されている。
入蒙中は戦乱に継ぐ戦乱。このモンゴル・ツアーの後援者は、張作霖と並ぶ馬賊の頭目盧占魁だったが、結局このツアーの時期に張作霖の手で数千の将兵諸共殲滅された。
この入蒙を支援してくれた支那人のほとんどが生命を落としてしまったのだ。
これを見ると、このモンゴルツアーでの生還率は、1%にも満たない。これは何を意味するかというと出口王仁三郎の型出し御神業ではあるが、残った人間は2%、3%どころではないという示唆ではある。
入蒙記は、責付出獄中を推してモンゴルに入った出口王仁三郎一行だけは、数々の冒険も行って、奇跡的に生還できて万々歳みたいな書きぶりだが、実は大量殺戮を経てみろくの世に入れたのは、実に厳しい確率だったという暗喩でもある。
これが、『入蒙記 霊界物語特別編』が天祥地瑞でもない別枠に置かれている理由なのだろうと思う。
このことは、植芝盛平の高弟の砂泊兼基『合気道開祖植芝盛平』を読んで気がついた。
ツアーのスタート日が2月12日であって、ダンテス・ダイジとのリンクを連想する人もいるだろう。本田親徳⇒出口王仁三郎⇒ダンテス・ダイジという流れはあるのだと思う。