◎梅で開いて松で治める、竹は外国の守護
令和は、梅の花の歌の詞書。台湾の国花は梅。日本の国花は桜と菊。
梅は、古来中国の文人に盛んに愛でられたものだが、その色合いはどちらかというと控えめで地味なものである。明治以前の日本人の教育は、儒教を中心とした漢籍で行われてきたのだから、梅を選ぶのに今更違和感はないが、日本の書物を典籍としたのにことさらに梅を選ぶのかという因縁を感じる。
梅は、梅花心易があるように世界・コスモスのシンボル。
明治25年の大本神諭冒頭、
『三ぜん世界一同に開く梅の花、艮の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。
日本は神道、神が構わな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。
外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。是では、国は立ちては行かんから、神が表に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ。』
これが、明治32年旧7月1日の大本神諭では、梅、松、竹となる。
『梅で開いて松で治める、竹は外国の守護であるぞよ。
此の経綸を間違はしたら、モウ此の先はどうしても、世は立ちては行かんから、神が執念深う気を付けて置くぞよ。
明治二十八年から、三体の大神が地へ降りて御守護遊ばすと、世界は一度に夜が明けるから、三人の霊魂を神が使ふて、三人世の元と致して、珍らしき事を致さすぞよ。いろは四十八文字で、世を新つに致すぞよ。此中に居る肝心の人に、神の経綸が解りて来て、改心が出来たら世界に撤配りてある霊魂を、此大本へ引寄して、神の御用を致さすから、左程骨を折らいでも経綸は上十いたすから、何事も、神の申す様に為て居りて下されよ。』
出口王仁三郎は、第一次大本事件で、大阪の『梅』田で身柄を確保され、第二次大本事件では、『松』江で身柄を確保された。
竹については、武力のことだが、随筆集月鏡に説明がある。
『梅で開いて松で治める。竹は外国の守護といふ意味は、梅は教、松は政治、竹は武を意味するもので、武は国を害すると云ふので害国といふ事になる。
それを穿き違ひして竹を嫌ふと云ふのは可笑な事である。竹は古来四君子の中の一として崇められて居て、坦懐にしてしかも節があつてしつかりして居る、悪い事は少しもない。
皆が取り違ひして竹を嫌ふので三代がわざとに竹を植ゑて其中に掬水荘を建てて住んでゐるのである。』
(月鏡/出口王仁三郎から引用)
※三代は後に『竹』田に住んだという。
更に随筆集玉鏡では、
『梅で開いて松で治める、竹は外国の守護である、と云ふ神諭の一つの意味は、梅は教、松は政治である。竹は武を意味する。武器はもと竹で造つた。弓がそれであり、竹槍がそれである。武器を用ひなくてはならぬやうでは悪い、と云ふ意味である。』
(玉鏡/出口王仁三郎から引用)
大本神諭に限ったことではないが、神がかり系文書は、一つの言葉を3重の意味で使いわけるなどというのは、普通にあるもの。同じ一つの言葉が、次の行では全く異なる意味で使われているなどはざらである。
梅が開くとは、皆チャクラが開くとイメージするだろうが、世界全体が開く、第六身体アートマンが開くということで、見神、見仏、見道を言う。
松で治めるとは、みろくの世、弥勒神政、松の世のことで、全員が神を知っている、悟っている時代の政治、鼓腹撃壌。
松の世でも軍備があるが、すでに世界の武装解除は終わっているので、松の世にも竹たる軍備が政治に大きく影響を与えるようではまずいということ。
梅の令和時代が始まった。
令和は、梅の花の歌の詞書。台湾の国花は梅。日本の国花は桜と菊。
梅は、古来中国の文人に盛んに愛でられたものだが、その色合いはどちらかというと控えめで地味なものである。明治以前の日本人の教育は、儒教を中心とした漢籍で行われてきたのだから、梅を選ぶのに今更違和感はないが、日本の書物を典籍としたのにことさらに梅を選ぶのかという因縁を感じる。
梅は、梅花心易があるように世界・コスモスのシンボル。
明治25年の大本神諭冒頭、
『三ぜん世界一同に開く梅の花、艮の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。
日本は神道、神が構わな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。
外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。是では、国は立ちては行かんから、神が表に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ。』
これが、明治32年旧7月1日の大本神諭では、梅、松、竹となる。
『梅で開いて松で治める、竹は外国の守護であるぞよ。
此の経綸を間違はしたら、モウ此の先はどうしても、世は立ちては行かんから、神が執念深う気を付けて置くぞよ。
明治二十八年から、三体の大神が地へ降りて御守護遊ばすと、世界は一度に夜が明けるから、三人の霊魂を神が使ふて、三人世の元と致して、珍らしき事を致さすぞよ。いろは四十八文字で、世を新つに致すぞよ。此中に居る肝心の人に、神の経綸が解りて来て、改心が出来たら世界に撤配りてある霊魂を、此大本へ引寄して、神の御用を致さすから、左程骨を折らいでも経綸は上十いたすから、何事も、神の申す様に為て居りて下されよ。』
出口王仁三郎は、第一次大本事件で、大阪の『梅』田で身柄を確保され、第二次大本事件では、『松』江で身柄を確保された。
竹については、武力のことだが、随筆集月鏡に説明がある。
『梅で開いて松で治める。竹は外国の守護といふ意味は、梅は教、松は政治、竹は武を意味するもので、武は国を害すると云ふので害国といふ事になる。
それを穿き違ひして竹を嫌ふと云ふのは可笑な事である。竹は古来四君子の中の一として崇められて居て、坦懐にしてしかも節があつてしつかりして居る、悪い事は少しもない。
皆が取り違ひして竹を嫌ふので三代がわざとに竹を植ゑて其中に掬水荘を建てて住んでゐるのである。』
(月鏡/出口王仁三郎から引用)
※三代は後に『竹』田に住んだという。
更に随筆集玉鏡では、
『梅で開いて松で治める、竹は外国の守護である、と云ふ神諭の一つの意味は、梅は教、松は政治である。竹は武を意味する。武器はもと竹で造つた。弓がそれであり、竹槍がそれである。武器を用ひなくてはならぬやうでは悪い、と云ふ意味である。』
(玉鏡/出口王仁三郎から引用)
大本神諭に限ったことではないが、神がかり系文書は、一つの言葉を3重の意味で使いわけるなどというのは、普通にあるもの。同じ一つの言葉が、次の行では全く異なる意味で使われているなどはざらである。
梅が開くとは、皆チャクラが開くとイメージするだろうが、世界全体が開く、第六身体アートマンが開くということで、見神、見仏、見道を言う。
松で治めるとは、みろくの世、弥勒神政、松の世のことで、全員が神を知っている、悟っている時代の政治、鼓腹撃壌。
松の世でも軍備があるが、すでに世界の武装解除は終わっているので、松の世にも竹たる軍備が政治に大きく影響を与えるようではまずいということ。
梅の令和時代が始まった。