◎第二次大本事件最大の謎
昭和10年12月8日に発生した第二次大本事件は、教祖出口王仁三郎をはじめ数千人の信者が警察に拘束、出頭となり、非武装新興宗教に対する未曽有の宗教弾圧であった。
新興宗教は巨大化しすぎると、テンプル騎士団や大本のように弾圧されるということから学んだ戦後新興宗教が、代議士を出したり、政党を持ったりしているのは、その教訓かもしれない。
さて第二次大本事件最大の謎は、二つある。一つは、事件発生前夜に無名の笹目恒雄に出口王仁三郎自身が教団のご神体を崑崙に返還することを命じたこと。
もう一つは、教団の最高幹部の一人だった合気道開祖植芝盛平が、事件の期間中、足掛け8年ほど一貫して収監されることがなかったことである。その理由について大本側に書かれたものはほとんどないが、合気道側の書物によれば、次のようなものである。
1.軍部に武道師範として、合気道を受け入れる機運はなかったが、ひょんなきっかけで薩摩出身の海軍大将山本権兵衛が、植芝盛平を軍内で武術稽古の師範として活動することを認めた。
2.以後警察でも植芝盛平が、武術師範として活動開始。
3.昭和10年12月、第二次大本事件前夜、内務省から曽根崎警察署長が、植芝盛平の収監指示を受けたが、自らは植芝に弟子入りしていたこともあり、自分自身で植芝盛平の取り調べを行い、収監の必要なしと結論づけた。以後内務省から曽根崎警察署長に再三の収監催促があったが、自分が在任中は自分が取り調べるとがんばって、植芝盛平を守り通したという。(組織指示に叛いて人道を通したユダヤ人生命のビザの杉原千畝にも似ている)
こうした話は、植芝盛平側から弁明するはずもないし、警察側からも出るはずもないし、弾圧された大本信者からは、兎角うまく立ち回ったのではないかと邪推されがちなものであるが、全体の構図から見れば、植芝盛平が未収監で終わったのは、奇跡的であり、天の配剤というべきものである。
なお内務省は、最初から出口王仁三郎を含め孫弟子くらいまで、5年くらい未決で収監するつもりだったという話も出ているが、先の話と同様に、真偽のほどはわからないし、確かめる術もない。
真の人間であれば、その大騒擾の中でも一人くらいは別天地に置かれるのだろう。
昭和10年12月8日に発生した第二次大本事件は、教祖出口王仁三郎をはじめ数千人の信者が警察に拘束、出頭となり、非武装新興宗教に対する未曽有の宗教弾圧であった。
新興宗教は巨大化しすぎると、テンプル騎士団や大本のように弾圧されるということから学んだ戦後新興宗教が、代議士を出したり、政党を持ったりしているのは、その教訓かもしれない。
さて第二次大本事件最大の謎は、二つある。一つは、事件発生前夜に無名の笹目恒雄に出口王仁三郎自身が教団のご神体を崑崙に返還することを命じたこと。
もう一つは、教団の最高幹部の一人だった合気道開祖植芝盛平が、事件の期間中、足掛け8年ほど一貫して収監されることがなかったことである。その理由について大本側に書かれたものはほとんどないが、合気道側の書物によれば、次のようなものである。
1.軍部に武道師範として、合気道を受け入れる機運はなかったが、ひょんなきっかけで薩摩出身の海軍大将山本権兵衛が、植芝盛平を軍内で武術稽古の師範として活動することを認めた。
2.以後警察でも植芝盛平が、武術師範として活動開始。
3.昭和10年12月、第二次大本事件前夜、内務省から曽根崎警察署長が、植芝盛平の収監指示を受けたが、自らは植芝に弟子入りしていたこともあり、自分自身で植芝盛平の取り調べを行い、収監の必要なしと結論づけた。以後内務省から曽根崎警察署長に再三の収監催促があったが、自分が在任中は自分が取り調べるとがんばって、植芝盛平を守り通したという。(組織指示に叛いて人道を通したユダヤ人生命のビザの杉原千畝にも似ている)
こうした話は、植芝盛平側から弁明するはずもないし、警察側からも出るはずもないし、弾圧された大本信者からは、兎角うまく立ち回ったのではないかと邪推されがちなものであるが、全体の構図から見れば、植芝盛平が未収監で終わったのは、奇跡的であり、天の配剤というべきものである。
なお内務省は、最初から出口王仁三郎を含め孫弟子くらいまで、5年くらい未決で収監するつもりだったという話も出ているが、先の話と同様に、真偽のほどはわからないし、確かめる術もない。
真の人間であれば、その大騒擾の中でも一人くらいは別天地に置かれるのだろう。