◎臨済録行録から
黄檗は、臨済の師匠。ある日、寺全体で普請の工事を総出でやっていたところ、皆の後ろから臨済は、とことこと鍬も持たずについて行った。
手ぶらの臨済を見とがめて、黄檗が「鍬はどこにあるのか」と問うと、
臨済「誰かが持っていってしまいました。」
黄檗「そのことについて議論しよう」と言うやいなや、黄檗は鍬を振り上げて「天下の誰も持ち上げられないぞ」
臨済は、黄檗からその鍬をひったくり「どうして今度は私の手に鍬があるのだろう」
黄檗「今日は、大普請をしてくれた人間がいたぞ」と言って、そのまま寺に帰った。
普請は、人を作ること。鍬は、第六身体アートマンであって、この一つながりの世界全体。黄檗にアートマンがあるように臨済にもある。それがわかるか、というもの。
だが、後に禅僧仰山が、これだけでは味も素っ気もないと思ったのか、臨済はとっさに鍬を奪った泥棒だが智慧は君子を越えるなどとコメントしている。泥棒なものか。
禅問答は、いつでも問答が起こりえる常在戦場だが、いつでも真理を持ちながら緩まない厳しさを求める一方で、この遊び心が気に入らない人はいるものだ。
黄檗は、臨済の師匠。ある日、寺全体で普請の工事を総出でやっていたところ、皆の後ろから臨済は、とことこと鍬も持たずについて行った。
手ぶらの臨済を見とがめて、黄檗が「鍬はどこにあるのか」と問うと、
臨済「誰かが持っていってしまいました。」
黄檗「そのことについて議論しよう」と言うやいなや、黄檗は鍬を振り上げて「天下の誰も持ち上げられないぞ」
臨済は、黄檗からその鍬をひったくり「どうして今度は私の手に鍬があるのだろう」
黄檗「今日は、大普請をしてくれた人間がいたぞ」と言って、そのまま寺に帰った。
普請は、人を作ること。鍬は、第六身体アートマンであって、この一つながりの世界全体。黄檗にアートマンがあるように臨済にもある。それがわかるか、というもの。
だが、後に禅僧仰山が、これだけでは味も素っ気もないと思ったのか、臨済はとっさに鍬を奪った泥棒だが智慧は君子を越えるなどとコメントしている。泥棒なものか。
禅問答は、いつでも問答が起こりえる常在戦場だが、いつでも真理を持ちながら緩まない厳しさを求める一方で、この遊び心が気に入らない人はいるものだ。