◎仏も祖師も両方とも礼拝しない
禅の初祖達磨の墓は、河南省熊耳山定林寺にあるという。ある日、臨済がその墓にやって来た。
墓守の僧曰く、「あなたは、先に仏を礼拝しますか、まず祖師達磨を礼拝しますか。」
臨済、「仏も祖師も両方とも礼拝しない。」
墓守の僧曰く、「あなたは、仏や祖師達磨と何か仇敵ででもあるのですか」
臨済は、さっと袖をうち払って出て行った。
臨済は、河北省の本拠から河南省の達磨の墓所にまでやってきて、気のきかない墓守に墓参を邪魔された。禅の修行者であってもわかっていない者は多い。
禅家であれば、わかっていない修行者に、このように仏法の大意を示して見せねばならないという、禅家のつらいところが見える。
臨済は、仏であって祖師達磨でもある。七つの身体論でいえば個人でありながら、第六身体アートマンなる全体を生きるのだから、仏であって祖師達磨でもある。よって仏を礼拝する必要もなく、祖師達磨を礼拝する必要もない。
そこは論でも哲学でも考え方でもなく、臨済の生きる現実がそうなのだ。
禅の初祖達磨の墓は、河南省熊耳山定林寺にあるという。ある日、臨済がその墓にやって来た。
墓守の僧曰く、「あなたは、先に仏を礼拝しますか、まず祖師達磨を礼拝しますか。」
臨済、「仏も祖師も両方とも礼拝しない。」
墓守の僧曰く、「あなたは、仏や祖師達磨と何か仇敵ででもあるのですか」
臨済は、さっと袖をうち払って出て行った。
臨済は、河北省の本拠から河南省の達磨の墓所にまでやってきて、気のきかない墓守に墓参を邪魔された。禅の修行者であってもわかっていない者は多い。
禅家であれば、わかっていない修行者に、このように仏法の大意を示して見せねばならないという、禅家のつらいところが見える。
臨済は、仏であって祖師達磨でもある。七つの身体論でいえば個人でありながら、第六身体アートマンなる全体を生きるのだから、仏であって祖師達磨でもある。よって仏を礼拝する必要もなく、祖師達磨を礼拝する必要もない。
そこは論でも哲学でも考え方でもなく、臨済の生きる現実がそうなのだ。