◎ダンテス・ダイジの老子狂言から
ダンテス・ダイジの未公刊の遺稿『老子狂言』から
『格言1
○
人間は
確固とした何者かであろうとする
人間とは
欲望を自覚した分裂的な個生命体のことだ
人間的な一体感は安心感を仮作するが
その安心感ゆえに不安でもあることになる
人間は確かなものを求めざるを得ない
確かなものが人間自体にないことを知ってしまったからだ
人間的安定は、絶対者の戯れと正反対の立場にある
産みの苦しみは本当に産みの苦しみだ
人間性は、完全な束縛を願い、
そしてまた、あらゆる束縛からの解放を願う
観念的であるということは
現実的であることだ
現実的行動派は実は余りに夢想的なのだ
確実なものが何一つないここでは
あらゆる方向性が意味を持ち
あらゆる価値付けが無意味だ
只管打坐の坐禅修行に励んでいるある婦人が、こう言った。
「今日の坐禅中はひたすらタタミの目の数を数えていました」
コリャア一体何者ぞ?』
(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)
七つの身体でいけば、アートマン、ニルヴァーナ以外に絶対的なもの、永遠不壊はないが、そこは既にすべてのすべて、アルファでありオメガであり、なにもかもなしである。
人間は神による完全な束縛、完全な保護、完全な安全を願っている。そこで定職につこうとしたり、永久就職をしようとしたり、財産を増やそうとしたり、家族を持とうとしたり、その分野でトップになろうとしたり、魂の伴侶を求めたり、パワースポット巡りしたりする。
そうしたあらゆる人間的努力は、実は人生時間切れになったり、自分の才能や因縁にふさわしいものでなかったり、離婚したり、失恋したり、首尾よく実現できたとしても、本当はそれを望んでいなかったことに気づいたりする。
そうした総体の展開に若くして気がつく人もいれば、死ぬ間際まで気がつかない人もいる。
自分の死を現実的なものと感じれば、一生タタミの目の数を数え続けることなどない。
だからこそ、現実的行動派は実は余りに夢想的であるということになる。そして、確実なものが何一つないとわかれば、そこで絶望に陥ったり、動顛しなければ、あらゆる方向性が意味を持ち、あらゆる価値付けが無意味となる。この立場は神人合一であり、モクシャ、大涅槃である。
ダンテス・ダイジの未公刊の遺稿『老子狂言』から
『格言1
○
人間は
確固とした何者かであろうとする
人間とは
欲望を自覚した分裂的な個生命体のことだ
人間的な一体感は安心感を仮作するが
その安心感ゆえに不安でもあることになる
人間は確かなものを求めざるを得ない
確かなものが人間自体にないことを知ってしまったからだ
人間的安定は、絶対者の戯れと正反対の立場にある
産みの苦しみは本当に産みの苦しみだ
人間性は、完全な束縛を願い、
そしてまた、あらゆる束縛からの解放を願う
観念的であるということは
現実的であることだ
現実的行動派は実は余りに夢想的なのだ
確実なものが何一つないここでは
あらゆる方向性が意味を持ち
あらゆる価値付けが無意味だ
只管打坐の坐禅修行に励んでいるある婦人が、こう言った。
「今日の坐禅中はひたすらタタミの目の数を数えていました」
コリャア一体何者ぞ?』
(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)
七つの身体でいけば、アートマン、ニルヴァーナ以外に絶対的なもの、永遠不壊はないが、そこは既にすべてのすべて、アルファでありオメガであり、なにもかもなしである。
人間は神による完全な束縛、完全な保護、完全な安全を願っている。そこで定職につこうとしたり、永久就職をしようとしたり、財産を増やそうとしたり、家族を持とうとしたり、その分野でトップになろうとしたり、魂の伴侶を求めたり、パワースポット巡りしたりする。
そうしたあらゆる人間的努力は、実は人生時間切れになったり、自分の才能や因縁にふさわしいものでなかったり、離婚したり、失恋したり、首尾よく実現できたとしても、本当はそれを望んでいなかったことに気づいたりする。
そうした総体の展開に若くして気がつく人もいれば、死ぬ間際まで気がつかない人もいる。
自分の死を現実的なものと感じれば、一生タタミの目の数を数え続けることなどない。
だからこそ、現実的行動派は実は余りに夢想的であるということになる。そして、確実なものが何一つないとわかれば、そこで絶望に陥ったり、動顛しなければ、あらゆる方向性が意味を持ち、あらゆる価値付けが無意味となる。この立場は神人合一であり、モクシャ、大涅槃である。