◎弥勒の時代の前半と後半
弥勒三会とは、地上天国を建設している最中の、善悪混淆、善と悪とのバトルの時代が前半であって、法身の弥勒と応身の弥勒が活躍する時期のこと。後半の時代に初めて、地上天国の時代、鼓腹撃壌の時代に成る。これが報身の弥勒の時代。これは世の大峠以降。
弥勒は悪魔たる大自在天と闘わなければならないが、弥勒のパワーゲージは100に対して悪魔は99。悪魔側は、財力もあり、政治力もあり、法律も権力も持っており、マスコミの力もあり、SNSコントロールもできるし、その上軍隊や核兵器までも使って攻めてくる。
弥勒と悪魔の差の1は、誠一つの1だけである。この誠一つを以って悪魔方の99のすべてを撃破していく。このように弥勒様の応身の立場は、実に苦しい。悪魔方すべてを撃破し去って初めて報身の世となる。
ところで、出口王仁三郎は、どうしても悪魔がいる立場から説明するが、ダンテス・ダイジは、悪魔とは、自我の消える最終段階で登場するものというような表現の仕方をとり、最後には悪魔はもともと居なかったことを悟るというような説明の仕方を採る。これは、釈迦成道直前の悪魔の出現の仕方、イエスの荒野の40日での悪魔の出現の仕方を見れば、なるほどと思い当たる人も多いのではないか。
弥勒報身の時代の人間とは、伊都能売という両性具有にあるとは、善悪の別を超える、天国と地獄の別を超える、男女の別を超える、つまり神を知るということであって、そこで初めて誠一つを持つ。
誠一つを持って人間が報身の働きをする至福千年が弥勒の世である。
その修行法として、出口王仁三郎は、鎮魂帰神を推した。
『弥勒の世に住む人は、総て報身の働をしなければならぬ。報身の働となつて、国家天下の為に尽す、さうせぬことには、報身の世は現れて来ない。報身の世になると、すベての人は聖人君子計りになる。此世を指して神世と謂ひ、弥勒の世と謂ひ、或は天国浄土と謂ふのであります。』
【出口王仁三郎全集第2巻宗教・教育編第6篇 宗教雑感 第18章 弥勒の世から引用】
弥勒三会とは、地上天国を建設している最中の、善悪混淆、善と悪とのバトルの時代が前半であって、法身の弥勒と応身の弥勒が活躍する時期のこと。後半の時代に初めて、地上天国の時代、鼓腹撃壌の時代に成る。これが報身の弥勒の時代。これは世の大峠以降。
弥勒は悪魔たる大自在天と闘わなければならないが、弥勒のパワーゲージは100に対して悪魔は99。悪魔側は、財力もあり、政治力もあり、法律も権力も持っており、マスコミの力もあり、SNSコントロールもできるし、その上軍隊や核兵器までも使って攻めてくる。
弥勒と悪魔の差の1は、誠一つの1だけである。この誠一つを以って悪魔方の99のすべてを撃破していく。このように弥勒様の応身の立場は、実に苦しい。悪魔方すべてを撃破し去って初めて報身の世となる。
ところで、出口王仁三郎は、どうしても悪魔がいる立場から説明するが、ダンテス・ダイジは、悪魔とは、自我の消える最終段階で登場するものというような表現の仕方をとり、最後には悪魔はもともと居なかったことを悟るというような説明の仕方を採る。これは、釈迦成道直前の悪魔の出現の仕方、イエスの荒野の40日での悪魔の出現の仕方を見れば、なるほどと思い当たる人も多いのではないか。
弥勒報身の時代の人間とは、伊都能売という両性具有にあるとは、善悪の別を超える、天国と地獄の別を超える、男女の別を超える、つまり神を知るということであって、そこで初めて誠一つを持つ。
誠一つを持って人間が報身の働きをする至福千年が弥勒の世である。
その修行法として、出口王仁三郎は、鎮魂帰神を推した。
『弥勒の世に住む人は、総て報身の働をしなければならぬ。報身の働となつて、国家天下の為に尽す、さうせぬことには、報身の世は現れて来ない。報身の世になると、すベての人は聖人君子計りになる。此世を指して神世と謂ひ、弥勒の世と謂ひ、或は天国浄土と謂ふのであります。』
【出口王仁三郎全集第2巻宗教・教育編第6篇 宗教雑感 第18章 弥勒の世から引用】