◎ラーマクリシュナ
久々に19世紀インドの聖者ラーマクリシュナを読んでいる。
何が幻かと言えば、自分あるいは我が幻であると言い切っているシーンがある。
チベット密教で空性の修行というのがあるが、この世、あの世のあらゆるものは空性であると観想するのはよい。だが、その行きつくところは、自分も空である。自分即是空であるというのは、とても恐ろしいことである。
だから自分が空であるとか、自分こそが幻であるなどとストレートな表現を、諸聖賢はあまりしないのだろう。
大体最近、瞑想などというと、すっきりするとか、願望が叶うとか、引き寄せるとか、合格祈願とか、身代わりとか、恭喜発財とか、チャクラとかクンダリーニとか、絶対矛盾の自己同一化などといろいろ言っているが、冥想の行きつくところはそんなところではなく、ラーマクリシュナの言う通りの場所がゴール地点。
自分に出会うことは恐ろしいとダンテス・ダイジはわりと言うが、他の方はあまりそんなことは言わない。
だがその一方で、自分が安定的でないとか、自分が幻影だとか、本気で思い込んだら、そんな恐ろしいことはないと皆知っている。
冥想に取り組むというのは、幻影なる自分に出会うということだが、それに向き合わなければ、自分の未来も人類の存続もないというのは、誠に論理を絶したジレンマである。
説得できないので、感じている人だけに語るしかない。
久々に19世紀インドの聖者ラーマクリシュナを読んでいる。
何が幻かと言えば、自分あるいは我が幻であると言い切っているシーンがある。
チベット密教で空性の修行というのがあるが、この世、あの世のあらゆるものは空性であると観想するのはよい。だが、その行きつくところは、自分も空である。自分即是空であるというのは、とても恐ろしいことである。
だから自分が空であるとか、自分こそが幻であるなどとストレートな表現を、諸聖賢はあまりしないのだろう。
大体最近、瞑想などというと、すっきりするとか、願望が叶うとか、引き寄せるとか、合格祈願とか、身代わりとか、恭喜発財とか、チャクラとかクンダリーニとか、絶対矛盾の自己同一化などといろいろ言っているが、冥想の行きつくところはそんなところではなく、ラーマクリシュナの言う通りの場所がゴール地点。
自分に出会うことは恐ろしいとダンテス・ダイジはわりと言うが、他の方はあまりそんなことは言わない。
だがその一方で、自分が安定的でないとか、自分が幻影だとか、本気で思い込んだら、そんな恐ろしいことはないと皆知っている。
冥想に取り組むというのは、幻影なる自分に出会うということだが、それに向き合わなければ、自分の未来も人類の存続もないというのは、誠に論理を絶したジレンマである。
説得できないので、感じている人だけに語るしかない。